総 合 案 内 

・みずのわ出版TOPページ

年度別 ・ 総目録

・全書籍一覧
・2012年以降刊行分
・2011年刊行分
・2010年刊行分
・2009年刊行分
・2008年刊行分
・2007年刊行分
・2006年刊行分
・2005年刊行分

ジャンル別

・宮本常一
・民俗学・文化人類学
・神戸
・韓国・朝鮮
・詩・小説
・ノンフィクション
・社会科学
・美術・写真
・周防大島・瀬戸内海
・宗教
・本の本
・音楽

シリーズ

・みずのわ文庫
・なぎさの記憶
・かむろ復刻版
・spin
・宮本常一写真図録
・宮本常一離島論集
・島―瀬戸内海をあるく

お問い合わせ、等

・ご注文方法
・FAX・封書兼用注文用紙
・自費出版のご案内
ウエッブサイトから感想、注文・問合せ

みずのわColumn

島びと三代の記


みずのわ出版代表 柳原一徳が中国新聞文化面「緑地帯」(2006年2月8〜17日付、8回連載)に執筆したコラムに加筆訂正。




第1回第2回 第3回第4回
第5回第6回 第7回第8回




【1】移民の町神戸


 震災から10年を経た神戸で、ただでさえ成り立ちにくいといわれる地方出版社を経営している。都市としての成立の古い大阪や京都と異なり、単なる成り上がり都市にすぎない神戸にあって、三代続いた神戸っ子はそうそういないというのが私の論だが、かく言う私もその一人であって、母が山口県の周防大島、父がその属島の沖家室島の出で、私自身も幼稚園に入るまでの殆どを大島で過ごした。関西人ではあるけれども、三つ子の魂百まで、というやつである。
 住処にしている春日野道近辺は今は中央区だが元は葺合区といった。コープこうべの祖賀川豊彦がセツルメントを行った新川とは指呼の間にあり、在日コリアンと奄美群島出身者、就中沖永良部出身者の多く住む地域として知られる。
 近代の開港場となった神戸は、職を求めて吸い寄せられた様々の人たちの坩堝であったわけだが、その歴史の中で湊川のおかれた位置は見過ごすわけにはいかない。東西に走る六甲山地と大阪湾に挟まれた、ウナギの寝床のような神戸市街にあって三菱、川崎といった軍需産業の発展は急務であった。とくに湊川の河口につくられた川崎造船所の発展を担保するため、日清と日露の二つの戦争を挟んだ時期に湊川付け替えが行われた。海に向かって真っ直ぐ流れていた川が、会下山に隧道を穿つことで東西、すなわち山と海に並行して流れるようになった。結果、長田区の被差別部落は水害と隣り合わせの生活を余儀なくされた。これは兵庫県立湊川高校教諭、登尾明彦氏のご教示による。移民の町神戸は、富国強兵、そして侵略戦争と不可分の存在であった。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【2】『かむろ』という雑誌


 ここ5年ほど、山口県沖家室島の同郷通信『かむろ』の復刻に携わっている。島の青年団体「沖家室惺々会」の機関誌として当初は季刊、後に月刊で1914(大正3)年から1940(昭和15)年まで158号を刻んだこの小さな雑誌には、島の日常はもちろんハワイ、朝鮮、台湾、満州など移民先からの通信のほか文芸欄等も設けられていた。通信も交通も不便な時代、島外を働き場とする人々にとって、島とのつながりを確信できる、貴重な〈場〉であったに違いない。
 島の人の移民先、朝鮮、台湾等は当時日本の植民地だった。時代性に鑑みて当然であろうが、『かむろ』の誌面で、植民地へ向けての島人の発展を称える記事こそあれ、植民地支配を受けた人々の憤怒に対する視線はない。
 父方の実家は、1943(昭和18)年まで朝鮮京畿道の開城にいた。『かむろ』の誌面に頻繁にその名が出てくる木村勇二郎は高麗人参で財をなした実業家で、その連れ合いの弟にあたる祖父はそこの金庫番だった。高麗人参は土の精を吸い尽くすが故に収穫をすませた後、数年は畑を休ませる。財をなすには相当の土地が必要だろう。山口県くらいの面積の畑を持っていて小作料をとって歩くのに三ヵ月かかったと父は云うが、あながち誇張とは思えない。
 父は5歳まで開城で過ごした。屋敷の住み込みに「イーソバン」という気の優しい大男がいて、よく可愛がってもらった、今も忘れられないという。姓は「李」だろう。名はどの漢字をあてるのか。その後の消息を知る術のない「イーソバン」もまた、数年後勃発する朝鮮戦争で命を落とした一人かもしれない。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【3】殖民地の記憶


 昔の職場の先輩が、大正期の朝鮮に生まれ育ち京畿道開城の小学校の先生をしていた女性の聞書を一冊にまとめた時、編集を手伝ったことがある。子どものころ小遣い10銭握りしめて、というくだり。貨幣価値から考えておかしいのではと思い、ほぼ同年代にあたる母方の祖母に訊ねたら、小遣いなんて二銭貰えたらいい方だ。お年玉奮発して十銭、現金ではなくメリンスと呼んでいた襦袢の袖口をもらうこともあった、信州は貧乏だったからね、と。当時植民地朝鮮にいた日本人は、よっぽど羽振りがよかったのだろう。
 高麗人参で財をなした実業家木村勇二郎の娘が、梅子おばさんといった。当時東京で流行っていたパーマネントをあてるため、列車と船を乗り継いで東京へ行ってきたとか、風呂では自分で身体を洗ったことがないとか、山口県柳井の家を訪ねていくと、今からは信じられないような話を色々聞かせてくれた。それが嫌味に聞こえないところが、本当のグベンシャ(大島の方言で「お金持ち」の意。分限者の訛りか?)たる所以なのだろう。
 3年前の正月。山口県沖家室島の旧木村旅館、すなわち梅子おばさんの実家が全焼した。戦後の引揚げで、開城で築いた財を失ったとはいえ、それでも持ち帰った着物などが僅かばかり残っていたというが、これですべて灰燼に帰した。その10日後、梅子おばさんは自宅の火事で亡くなった。
 父が訪ねていった時、私の著書を土産にと手渡したら「ついにウチの家から作家が出たか」。私が『かむろ復刻版』を届けに行った時は、「お父さんが載っている」と仏壇に供えて喜んでくれた。そのすべてが灰になった。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【4】海との距離


 母方の実家は、山口県周防大島の安下庄の西端、「庄」という部落にある。中学生の頃までは浜があったのだが、ふと気がつけば殆ど埋め立てられてしまい、今は部落の西の外れまで足を延ばさないことには海水浴もできなくなってしまった。
 昼ごはんを終える頃、小学校高学年や中学生くらいの子がチャリンコ転がして浜に向かう。小さい子は、大人の付き添いがいる。大抵そこの家のお婆さんが付き添いで行くのだが、午後1時台のドラマを欠かさず観るものだから出発は遅くなる。浜はさながらバアさんの社交場だ。日傘さして砂浜に座り、お喋りに興じる。夏休みの間だけ午後三時に時報のサイレンが鳴る。海からあがれという合図だ。
 小学校3年の時、近くの美容院の娘がカラコギ(ヒメオコゼ)に刺されたことがある。痛い痛い歩けないというので、うちの祖母がおんぶして送っていった。そこで待ちよれと云われて近所の上級生の子とヤドカリを殻から引っこ抜いて遊んでいたこと、祖母の足の速かったことは、今も鮮明に覚えている。
 音程の外れたオルゴールらしきものに変わったものの、午後3時の時報は今も変わらない。だが、泳げるような浜がない。浜の残っている部落でも、地元の子が泳いでいる姿をあまり見なくなった。前も後ろもわからないほど真っ黒けに日焼けしているかどうかが、そこの部落の子と、そこに帰省している子を見分ける目印でもあったのだが。
 人工の浜をしつらえた海水浴場が島外の人らで賑わう今より、部落ごとに浜があった子どもの時分の方がはるかに海と近しかった。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【5】片足のない男


 山口県周防大島の母方の祖父、豊田春一は漁師だった。祖父の両親の代に広島県下蒲刈島から魚を追って島末の油宇へと移り住んできた一家で、九人きょうだいの三番目、長男だった。
 物ごころついた時、祖父にはすでに片足がなかった。日中戦争で重傷を負い、左足の膝から先を切断したのだ。家の中には替えの義足がいくつも転がっていた。私は祖父の義足をおもちゃ代わりによくいじっていたが、そのことで祖父母から怒られたことだけはなかった。
 外出する時は義足をつけたが、あれは残された足の先(切断面)と義足の受ける側が接するからものすごく痛いし、死ぬまで作り直しを続けなければならないらしい。祖父は、家の中ではいつも躄っていた。残された右足は子ども心にも痛々しいほど細かった。
 あの足で、広島から神戸に向かう新幹線で2時間立ち続けたことがある。軍隊を思えば屁でもないと祖父は云った。同行したおじさんは、酒が入ると今でもその話をする。
 凍傷で手足の指をいくつか失い、爪も変形していた。それでも手先の器用さは抜群で、釣りの仕掛けやら竹細工やら何でもこなした。ニワトリ小屋の組み立てから倉庫の増築まで、すべて自ら手掛けた。人並み外れて気が短いくせに、そういうところだけは辛抱なだった。漁師としてかなりの腕前だった。あんたかたのおじさんは違うた。生前の祖父を知る人は、今もそう云う。
 大島大橋が架かる前、大島がまだ離島だったころの旗日のこと。庭の畑の入口にしつらえた物干し台に、祖父は、白地が真っ茶色に灼けたぼろぼろの日の丸を掲げた。二人で、曇り空にはためく日の丸を見上げた。片足のない男は、何も云わなかった。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【6】木造漁船の祖父


 船タデと云われて何のことだかわかる人は、そう多くはないだろう。今の漁船は強化プラスチック製が主流だが、昔は木造だった。それ故、船底に藻や貝がつき、船体を喰う虫もつく。そいつを駆除するため月に一度くらい浜に揚げてやって、松葉やらで燻す。それを「船をタデる」という。
 1981(昭和56)年に亡くなった山口県周防大島の母方の祖父、豊田春一は漁師で、最期まで木造船を使っていた。当時、庄の部落の船着場に繋がれていた木造船は二、三隻くらいだったと思う。春日丸という木造船で、祖父は安下庄近辺から平郡島あたりに漁に出ていた。沖家室島で釣針屋を営んでいた父方のおじさんのところにも時々顔を出していたと聞く。宮島にも詣ってきたらしい。  潮の干満に合わせて暮らしていたのだろう。ふっと海へ出ていく。自転車で漁から帰ってくると、野良猫が列をなしてついて来た。
 戦中か戦後の一時期、祖父はカシキ(炊事を担当する船員)をしていた。真っ暗闇でも水の音だけでコメの水加減が分かるとか、海の神様にいの一番にご飯をお供えするから、船が沈んでもカシキだけは必ず助けてもらえるとか、祖父亡き後、祖母が教えてくれた。
 昔の島の人らは危険をかえりみず壱岐、対馬へと漕ぎ出して行った。うちの春一さんも星あかりを頼りに海に出ていった。この島の人らはみな辛抱なじゃった。この島に育てられたんじゃけぇお前も辛抱にならにゃいけん。幾度となく私にそう言い聞かせてきた祖母はしかし、この島の人でありながらも、最期までこの島の人ではなかった。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【7】信州の織り子さん


 母方の祖母、豊田ゆき子は山口県周防大島とは一見縁のない信州駒ヶ根に生まれた。当時の大島には下田、外入他に製糸工場があって、その仕事で駒ヶ根との間を行き来していたのが、祖母の親戚のおじさんだった。幼くして母が亡くなり、父親が再婚して子どもが生まれたため疎んじられたらしく、祖母は十八歳で家を出て織り子さんとして大島に来たという。そこで、日中戦争で片足を失って廃嫡同然となった祖父、春一と結婚する。
 今は跡形もないが、大正期から昭和初期にかけての大島には、養蚕とそれに連なる製糸業が、島の産業として存在した。これを最初に島に持ち込んで奨励したのが、島出身の民俗学者宮本常一の父善十郎だった。ここ数年宮本関連の仕事をいくつか手掛けている。同じ島の先達ということもあるが、私の祖母を信州から大島に連れてきた養蚕・製糸業との関わりの方に実は縁を感じているわけである。
 祖父母は終戦まで外入に居を構えた。祖母が亡くなるひと月前、妹と私とで当時の写真を見せてもらった。三下の浜で撮った20人ほどの集合写真。浜の風景は今とあまり変わらない。一人ひとり指差しながら、あの人はいい人じゃった、あの人は戦争で死んだ、と。
 祖母の小学校の卒業写真のこと。当時は写真を全員に配布し、後からお金を集めたらしい。持って帰ると母親に返却を命じられた。「うちに同じものがありますから要りません」と云って先生に写真を返した、という。
 昭和の終わりに地元の農協が当時の写真集を出版した時、祖母はすぐにそれを購入した。その写真集は今、私の手許にある。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


【8】帰るところ


 山口県周防大島の母方の実家は、終戦の頃まで旧東和町の外入にいて、戦後は旧橘町安下庄の三ッ松を経て西隣の庄に移り住み、1973(昭和48)年まで部落の区民館の住み込みをして後、近くに新居を構えた。
 長らく区民館の住み込みをして部落の諸々に関わっていたことと祖母の生来の世話焼きもあってか、新居を構えた後も人の出入りの多い家だった。週末など、晩ご飯を終えた近所の者がわらわらと集まってきてはテレビのプロレス中継に興じていた。人の来ん家は栄えんと祖母は云っていた。
 6年前の春の日、祖母は突然いなくなった。投宿先で倒れ、朝になって見つかった。ふすま一つ隔てた向こうで電話をとった母の、えっ、お母さんが……の第一声で、私はすぐさま神戸を発つ支度を始めた。不思議と冷静だった。いつかこんな日がくる。覚悟だけはしていた。離れて暮らすとはそういうことだ。
 夕方、安下庄の家に祖母を連れて帰った。当時祖母と暮らしていた妹と、テゴ(手伝い)に来た近所の人らが迎えてくれた。三十路にかかるこの日まで迷惑かけっ放しだった不肖の孫に、祖母は最後の最期で大島の家に連れて帰ってほしかったのかもしれない。ともあれ、亡くなるその直前まで祖母は現役で働き続けた。この人に、老後なんていうものはなかった。
 あの日、さて帰ろうかのと云って祖母を連れて帰った大島の家に、ふた月に一度帰っている。帰る所だけは持っちょけと祖母は云った。死ぬ迄旅を続けるであろう私にとっての神戸は、あくまで旅先だ。若くして信州を離れた祖母にとっての大島もまた旅先だったのか。それがいまだ解けずにいる。



島びと三代の記のTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ


みかん通販・写真 ほか

・みかん通販
・写真撮影
・blog みずのわ編集室
・Face Book
・みずのわ放送局

Column ・ Essay

・「瓦版 なまず」連載
・こんにち話
・安倍辞任
・黒子の義憤
・「宮本常一写真図録」
        刊行について

・万年赤字版元の疑問
・「宮本常一叩き売り」批判
・「神戸の本」あれこれ
・ぼやき
・いいのか、悪いのか?
・必然のない市町村名
・島びと三代の記
・さんぽ道






このページのTOPに戻る



ウエッブサイトから感想、注文・問合せ