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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第1回第2回 第3回


【第1回】 本屋のこと、思い出すままに(1)
   平野義昌(海文堂書店)


 何の準備も取材もせず、ただただウスーいアイマイな記憶を頼りに、思い出したか思いついた順に書く。その前に、私の職歴。1976年3月コーベブックス入社、5年でスッテン転んで“女の園”化粧品屋で1年9ヵ月、ひっくり返って、83年1月三宮ブックス押し込み強盗ならぬ入社、ここは何とか20年あまり、ところが、家主が資産を有効にお使いになりたいとかで店舗消滅。2003年4月海文堂書店に漂着、昔からここにおったような顔してちんたらやっておる次第。エラソーなことを書ける経歴じゃあござんせん。


 南天荘書店のこと(1)
 手元に南天荘書店のPR誌『野のしおり』25がある。85年12月発行の最終号。南天荘は灘区にあった老舗書店。
 12月8日海文堂でのイベントに「書肆アクセス」の畠中理恵子さんをお迎えした。11月17日「アクセス」閉店、その残務処理の合間を縫って手弁当で来てくださった。イベントの企画は「みずのわ」ネコ社長一徳、加えて「スムース」林哲夫、わが店長福岡宏泰、いわゆる『本屋の眼』黒幕三悪人、マチゴウタ三大人がそれぞれ畠中さんと厚い深いいやらしーい信頼関係を紡いでいたことによる。前日に到着された畠中さんを福岡・一徳・平野(私には大恩人、初対面のこの感激を文にしたいが、それでは10回分でも足らんのであきらめる)がわれらの高級立呑酒屋「赤松酒店」にご案内。神戸新聞美人記者平松ちゃんと合流。あとからメロン女史も参加。粛々と始まった酒も自然にいつもの手酌で遠慮も何もなくなった頃、畠中さんが『野のしおり』を取り出された。「アクセス」で販売していたものが棚か倉庫か、奥のほうから見つかったそうで、すでに南天荘は存在せぬし、よかったら全部送りますと。
 で、私のところにも『野のしおり』がやって来た。この号116ページ、通常の倍以上のボリュームとかで、「随分とお金がかかりました。定価200円。払って下さい」と最後に書いてある。
 編集はあの元正章さん。南天荘と言えば元さんだった(経営者の北風家については後日)。海文堂の小林さん、コーベブックスの松本さんと3人で『神戸図書ガイド』を作成し、3書店共同ブックフェアも開催。小林・元両氏を初めてお見かけしたのは、「地方小」立ち上げ後川上さんが大阪に来られた時だから80年でしょう、『図書ガイド』作成まもなくのこと。私はベテラン書店員の皆さんの話をフムフムと聞くばかり……、そんなワケがない。忘れもしない、生意気言って当時ユーゴーの「鬼」梅原さんに怒られた。元さんはその後も灘・六甲地区で地域おこしにからめて次々とフェアを開催され、「南天荘の元」は業界で轟いていた。
 たぶんこの編集作業、彼ひとりでやっていたのでしょう。執筆者、同社の社長を除いては以前修行に来ていたという彦根の人だけのよう。協力者がいなかったのか、協力させなかったのか、勘繰ってはいかん。元さんの人脈で出版関係者、地元の識者が寄稿しておられる。20年以上の歳月、幹部になった方、転職、独立、定年、業界から離れた方、鬼籍に入った方も。
 このPR誌、8年続いたのは元さんの力もありましょうが、書店にまだ元気があったからでしょう。それがボチボチ……。この時点で、南天荘はメイン六甲店(国鉄六甲道駅南100坪)、本店(同駅北25坪)、阪急六甲店(阪急六甲駅内50坪)、阪神深江店(東灘区30坪)と4店舗あった。梅田に出店していたこともあったと記憶。ちゃんと調べときます。
 南天荘はコーベブックスの株主の一社で、社長は日東舘書林だったと思う。南天荘の北風一雄氏が専務としてコーベブックスの経営を見ていた。実務は当時営業部長の村田耕平氏(のち三宮ブックス)。日東舘が降りて、南天荘社長だった北風氏の長男がコーベブックスの社長を兼任するのが80年。そのことと直接関係はなく、私は81年3月転んで行く。重役の方ではいろいろあったようで、それはまたの機会。


 宝文館のこと(1)
 神戸随一の老舗書店「宝文館」が12月24日で閉店と聞いたのは11月26日の朝礼時、当店経営者から。後継者がいないというのは何年も前から言われていたので、驚きはしないが、とうとう、という感じ。教科書業務は継続される由。また、湊川で気を吐いていた「ブックス花咲く街角」も明年1月末で廃業。こちらは家賃値上げに耐えられなくなったとか。一昨年の「書皮大賞」を競った書店。古書店でも神戸一の歴史と規模の「後藤書店」が年明けには閉まる。ここも後継者なし。本屋なんて静かに消えて行く商売なんです。「エエ本屋やったのになあ」と後から言われてもなあ、死んだらおしまい。
 とはいえ、「宝文館」は個人的にお世話になった。今のマンションの店舗になってからかなりの年月になるが、本屋としての魅力というか、個性というか、立ち寄ってみたいという本屋でなくなっていた。幼少の頃から親しんだ者には寂しいことだった。子どもが小学生の時、教科書をなくして買いに行って、三宮ブックスにはないベストセラー本が平積み、「さすが、老舗」と思ったことがあった。三宮ブックスには、ベストセラーなんて全くというほど入らなかった。それだけ弱小だったということだが、何を売っていたのか、今さらながら不思議。「フランス書院じゃい」。
 小学生の頃、元町通5丁目には「宝文館」の北西側に「みなせ」という書店もあった。現在、名はそのまま書道用品の専門店になっている。1年生の時、オババに学習参考書を買ってもらった本屋。「こんな本もあるんや」と思った。何せ、マンガと絵本と教科書しか知らなかったのだから。「みなせ」が本屋でなくなったのは、何時か定かではないが、小学校時代には既に、と記憶する。ごくごく普通の子どもだから、読書といっても学校の図書室が主で、などと言えばものすごい読書好きみたいだが、外で遊びまわっているほうがずーっと多かった。本屋は夏休みの感想文用の本を買うぐらい。「少年マガジン」や「サンデー」は市場の本屋で買っていた。「スポーツマン金太郎」「伊賀の影丸」「ちかいの魔球」「おそ松くん」の時代。もっと以前、『月光仮面』や『赤胴鈴之助』を読んでいたけど、どこで買ってもらったか不明。
「宝文館」の名称はあちこちにあるようで、神戸でも「灘宝文館」がある。元町のほうは「大阪宝文館」と業界では言っている。詳しくはもう少し調べてから書くつもりだが、書店開業は明治20年頃、書籍販売・卸と出版も多くされたよう。
つづく。

(2007年12月記)


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【第2回】本屋のこと、思い出すままに(2)
   平野義昌(海文堂書店)


 関係者の方々に話を聴きに行きたいが、何せ執筆忙しい。自分で調べたものだけで、とにかくしばらく茶を濁す。

 宝文館のこと(2)
 年末のシャッター貼り紙は「12・25〜1・14休業」だったが、年始10日頃に見た時は「2月から教科書・参考書専門店として再開、1月中は準備のため休業」とあった。こちらの社長は兵庫県教科書株式会社の社長でもある。公立小・中学校の教科書はいつでも買うことができたし、多くの学校を受け持っているはずで、地域にはなくてはならないお店。でも、一般読者に縁がなくなることには違いない。
 日本の近代を語る会編『識る力――神戸元町通で読む70章』(ジャパンメモリー発行、ブッキング発売)は、日本近代史をたどりながら「情報」をどう「認識」するか、過去のできごとがその後どうなって、現在の日本にどう影響しているかを考える取り組みで、そこに神戸の歴史を重ねている。特に元町通の資料や画像が豊富で、老舗の創業・街の発展がわかる年表まである。「宝文館」の記述は以下のとおり。
●1885年(明治18年)(5丁目)大阪の老舗出版元・出版問屋「吉岡寶文軒」(宝文館)が教科書も扱う書店「吉岡寶文軒支店」(今の宝文館書店)を開店する。
 ちなみに、わが海文堂書店の名が登場するのは、
●1923年(大正12年)(3丁目)多聞通に大正3年に開業した書籍小売・海事専門図書出版「賀集書店」(現・海文堂書店)が移転し開店する。
 宝文館の名は、この後にも出てくる。
●1924年(大正13年)(5丁目)書店「宝文館」の店頭にこの頃から神戸三中(今の長田高校)に通う淀川長治が店頭に積み上げられたアメリカの最新映画雑誌「フォトプレイ」「モーションピクチャー」などを買いに来る。
 宝文館がハイカラ文化の先端を担っていた様子がうかがえる。
 神戸史学会「歴史と神戸91号」(1978年)所収、共同研究「神戸図書出版史ノート」の落合重信『明治期』に、『兵庫県書籍商組合三十年誌』(昭和12年発行)の記事がある。明治37年国定教科書特約販売店を設けるにあたって「熊谷【註】、吉岡両書店にて文部省編纂の物を出版し、検査の上本県下に配付す」。また、組合創立に際して、「吉岡平助氏代理現組長柏佐一郎氏」の名が登場する。現社長の祖父にあたる。
 同じく「歴史と神戸93号」(1979年)の「神戸図書出版ノート昭和期(戦後)」。片山正代『吉岡宝文館(大阪宝文館神戸支店)の出版活動について』には、「明治20年頃、吉岡宝文軒神戸支店として開設され……、一般書籍・雑誌の取次及び販売と並び、出版事業においても大いに活躍した形跡」とある。片岡さんが調査した出版リストでは、「吉岡教育書房支店」「吉岡平助支店」「吉岡書店」「宝文館」「吉岡平助」「宝文館吉岡支店」「吉岡宝文館」という名で明治25年から44年まで「神戸支店」としての出版記録がある。郷土誌や教育関係書中心。大正期で「神戸」の出版地が明記されている本は2点、「東京」「大阪」と並記されているものが約50点あり、神戸独自のものの正確な数字は不明らしい。昭和期になると神戸支店出版4点と、東京・大阪並記38点、昭和13年以後は神戸支店の名はないとのこと。大正・昭和には出版の大勢は東京・大阪に移っている。
 それで、私の宝文館の思い出だ。元町駅山側にあった神戸中学からの帰り道に立ち寄るようになる。海文堂も帰り道だが、子ども心に、雰囲気がちがう、のだ。もちろん、海事図書云々など知らない、雑誌や文庫もあるのだけれど、気軽に入れなかった。その点宝文館は気が楽だった。というのも、海文堂には年配の大番頭みたいな人がレジにいはったけど、宝文館のレジはきれいなお姉さんでしたから。「そういうこっちゃ」。
 『眼』にも書いたが、中2の時の担任がユニークなおっさんで、忘れもしない佐藤守先生、授業中に「本読めー」とよく言うてはった。「おとなになっても本読めー」と。で、ある日、宝文館で肉体労働者のおっちゃんがごっそり本を買うのを目撃した。明細など覚えていないけれど、マンガでも雑誌でも文庫でもなかった。「佐藤のおっさんが言うとったんはこれか」とびっくりしたのだったか、感動したのだったか。休日もここに来ていた。文学書を見るわけではない、中学生らしいかどうか文庫の棚と学参売場で時間をつぶしているだけ。学校での私は人畜無害だったから委員長やら生徒会をしていても、勉強が特別優秀なこともなく、だからといって努力家でもない、クラブ活動もたいしたことはなく、ただ学参を探して選んで勉強した気になっていた、今思えば暗い中学生だったのでしょう。本が好きだったというより、本屋が好きだった、本屋の雰囲気が心地良かった、と気づくのは中年になってからのこと。遅いというか鈍いというか……、トホホのホだ。
 だらだらと続く。

【註】
『兵庫県書籍商組合三十年誌』によると、「熊谷」は「熊谷鳩居堂」(のち久栄堂)。京都の書籍・香・筆墨販売業の支店として明治元年には開設されていたよう、大正3年廃業。

(2008年1月記)


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【第3回】本屋のこと、思い出すままに(3)
   平野義昌(海文堂書店)


 宝文館、2月4日再開、営業時間正午から午後6時。店長さんひとりでやってはる様子。公立小中学校の教科書を全点面陳、辞書、学参、英検、漢検という品揃え。新学期が始まればまた変わるかな、自習書(虎の巻)をずらーっと並べたら面白いかも、などとヨソ様のこと考えている場合ではない。
 「ユリイカ2月号 特集中島らも」を見ていたら、サイン会の写真があった。見覚えあるカバー(書皮)は「コーべブックス」のもの。『頭の中がカユいんだ』(大阪書籍)刊行時だとかで、1986年(昭和61)。私は既に三宮ブックス勤務、当時在籍していたはずの現在海文堂同僚海事ゴット氏も文芸クマさんも「知らない」「覚えていない」と言う。歳のせいか? しっかりしいや、わしぁだれを頼ったらええねん。

 日東舘書林のこと(1) ――(2)があるかどうかはわからん。
 大丸前にあった老舗、震災で倒壊、そごう店も同じく全壊して、しばらくは垂水店だけが営業していたが、廃業。
 1891年(明治24)石丸甚八が裁判所前(我が家の近所)に書籍商と宗教雑誌「日本魂」発売所を開業。1900年(明治33)卸部を開設、教科書・一般書籍・雑誌の取次業務も開始。1903年(明治36)元町5丁目に移転。石丸は1925年(大正14)神戸区会議員になる。
 『君の名は』『鐘の鳴る丘』で有名な劇作家・小説家菊田一夫の半自伝的作品『がしんたれ』(甲斐性なし・能なし・役立たずという軽蔑のことば)に本屋が出てくる。菊田は不幸な生い立ちで、少年時代に厄介払いのように奉公に出された。大正9年、12歳で大阪の薬種問屋。ここで「がしんたれ」と殴られて働く。小柄でのろまな少年は飯も食いはぐれる。負けずに腹いっぱい食べるために「汁かけめし」を覚え、作家として成功しても変わらなかった。仲介した人間がワルで、菊田を二重に斡旋して契約金をふところにしていた。結局薬種問屋は3ヵ月。続いて神戸元町の美術商に奉公。ここは主人が温厚で夜学に通わせてくれた。学校の友人に勧められ詩を書き、主人の親戚の娘の影響で宝塚歌劇を見るようになる。文筆・演劇に目覚めたわけだ。同じ町内の書店「日東堂」の丁稚正吉と親しくなる。この書店が日東舘。菊田は3年で神戸を去る。地元同人誌だけではなく東京の雑誌にも入会し、賞をもらい、主人との間に何とも言えない亀裂が生じ、そこに金銭問題の誤解が発生、修復はならなかった。
 日東舘に戻る。宝文館とともに神戸を代表する書店だった。1953年(昭和28)に大丸前に移転し、最盛期には垂水、三宮そごう、長田の3支店があった。
 明治から昭和12年頃にかけて出版もしていて、観光案内書や神戸市街図を発行、特に地図は独占販売で繁盛したようす。その後の出版は昭和30年代になってから。郷土史、詩集、趣味実用書と幅広く活動したもよう(「歴史と神戸93」所収、片山正代「日東館の出版事業について」)。
 ある時期まで、たぶん「コーべブックス」が1965年(昭和40)に開業するまで神戸一の書店であったろうと推測する。株のチャートブックは長い間神戸での取り扱いはこちらだけ。三宮ブックス在籍当時、あれはバブルの頃、証券会社の注文を受けて毎週日東舘に出向いては10冊あまり買っていた。
 衰退の原因については知らないが、既に日販の支援を受けて、というより、傘下になり、店長は日販の人だった。それゆえ「コーベブックス」の経営から退いていたわけだが、その頃全国的に老舗書店が取次店支配になっていたのは事実だ。
 で、私が日東舘に行くようになるのは高校時代、やっぱり勉強もせんのに学参見に。相変わらず暗い学生生活や。たまにカッパブックスなんかのハウツー物。とても読書とは言えぬ。
 そうや、日東舘や、ここはなぜか女性従業員ばかりだった。
 「結局、それかー?」
 もうひとつ告白。実を言うと、「おせっかい」さんがいて、ここの従業員女性と1度だけデートした。まだ20代半ばの頃、書店員であることは双方承知。結局2度目はなかったわけで……。
 「そうじゃい、振られたんじゃい」

 聞き書きはいつからか? 急くでない。続く。


【参考文献】
尾崎秀樹・宗武朝子編『日本の書店百年』春英舎(1991年)
小幡欣治『評伝菊田一夫』岩波書店(2008年)

(2008年2月記)


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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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