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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第10回 第11回 第12回


【第10回】本屋のこと、思い出すままに(10)
   平野義昌(海文堂書店)


 海文堂書店のこと(2)
 元町通3丁目界隈にゆかりの作家はいないかと、物の本を探す[註1]。十一谷義三郎(じゅういちやぎさぶろう)という作家がいた。1897年(明治30)この地に生まれている。12歳の時、薬品問屋の番頭だった父親が亡くなり、酒造家・高嶋家(現、高嶋酒類食品。甲南漬で有名)の家僕を勤めながら神戸一中(現、神戸高校)に通う。高嶋家は慈善事業に熱心で、事情のある子弟を援助していた。裕福な灘五郷の旦那衆は昔から文化・教育に理解がある。文人を招いては、弟子という名のスポンサーになったり、寺子屋をつくったり。近代では、旧制灘中、甲陽学院に出資している。一中・二中(現、兵庫高校)に入れない自分たちの子どものために作ったと悪口を言う人もいるが……。
 義三郎は三高(現、京都大学の前身の一つ)から東京帝大英文科を卒業後、東京府立中学の教師に。1924年(大正13)与謝野鉄幹・晶子の招きで文化学院に移る。「文藝時代」の同人になり作家活動を開始。川端康成、今東光、横光利一、稲垣足穂らと交わる。「文学全集」では、この人たちと同じ巻に収録される。代表作「唐人お吉」は28年(昭和3)「中央公論」に連載、単行本化。29年(昭和4)映画化(溝口健二監督)。新聞連載の「神風連」も34年(昭和9)映画化された。「嵐が丘」「ジェイン・エア」など翻訳もある。この時代の流行作家だった。37年(昭和12)結核療養中に死去する。
 新刊本屋で読める本はない。直販出版社「EDI叢書」が出版している[註2]。京都の三月書房には在庫があるらしい、さすがである。神戸市立中央図書館の「ふるさと文庫」には収録の「文学全集」[註3]の他、『あの道この道』(創元社、1929年)、『時の敗者唐人お吉』(新潮社、1930年)などがあり、手に取ることができる。
 前置きが長くなった。海文堂の続き。
 戦後すぐの活動も詳しくはわからない。1946年(昭和21)10月バラックで営業を再開。53年(昭和28)頃からの記録では、復興を背景にして海運業界も活況、海文堂の本も発行すれば着実に売れたようだ。『船長受験問答』『乙丙航海士必携』『海上衝突予防法受験問答』などが並ぶ。1950年代半ば、船の大型化・高速化、造船技術の進歩で、出版物の価格は高くなり、発行部数も増える。『航海便覧』『危険物船舶運送及貯蔵規則』『海運実務指針』『造船設計便覧』など。しかし、60年代、海運業界では日本が外国海運の巨大マーケットになる。船員費など経費高騰と円高で、国際競争力が弱まる。出版も影響を受け新刊点数・重版点数とも下降していく。71年(昭和46)円切り上げ、73年(昭和48)オイルショックで大きなダメージを受けた。業界向け専門出版から一般読者向けにシフトしていくことになる。ヨット・モーターボート免許の本や船の写真集・画集などだ。『小型ヨットの作り方』『四季の天気予報と気象災害』『写真集世界の客船』『柳原良平画集』など[註4]。外国語会話集やテニスの本もこの頃出している。
 1953年(昭和28)東京出張所を開設し、58年(昭和33)海文堂出版株式会社となる。65年(昭和40)神戸の出版部門を東京に統合[註4]。その後、神戸では「海文堂書店」名で神戸市長の著書や郷土史本を出版したようだ。67年(昭和42)書店部門も株式会社に。
 73年(昭和48)一雄死去、62歳。前に紹介した南天荘・北風一雄氏と比べてあまりに早い死だ。海文堂にとって大きな「死」であった、と言わねばならない。

 村田耕平氏のこと(3)
 問屋時代の続き。高砂の書店手伝いを終え、「文開堂」に復帰する。前に書いたように、学習参考書が売れに売れた時代で、丁稚とか滅私奉公ということばが生きていた。24時間仕事が終わらない状態。最大手の旭屋書店など、朝一番で注文をもらったら、その日のうちに届け、夕方にまた注文があって、翌朝に届ける。そうしないことにはライバルの問屋に注文がいってしまう。書店の力が圧倒的に強い時代。複数の問屋と取引は当たり前だし、支払い・販売・仕入れの主導権は書店にあった。書店は今のような毎月100%の支払いなど要求されなかった。トーハン・日販という大取次会社は関西では後進だったし、大阪屋は主要書店が株主だった。
 だから、中小の問屋にも元気があった。「柳原書店」という人文・文学に強い問屋があり、岩波書店専門問屋、地図専門問屋、そして、多くの学参専門問屋と、それぞれが存在感を持っていた。本屋のオヤジが堂島の店売に仕入れに行くのは当然の仕事で、楽しみでもあった。残念ながら、現在、大手取次は店売を廃止し、中小問屋でも存続しているのは学参の「宮井書店」だけだ。ほとんどが倒産、廃業してしまった。大手取次の傘下に入ったところもある。
 「文開堂」もこの時期に急激に伸びたのだが、親族経営の短所というか、当然の結果というか、後継者問題で揺れる。村田も娘婿だが、そこに加わることはなかった。

[註]
(1)宮崎修二朗『環状彷徨――ぷるさと兵庫の文学地誌』(コーべブックス、1977年2月)
(2)EDI叢書「明治・大正・昭和の忘れられた作家たち 第2巻 十一谷義三郎」(保昌正夫編)。「兄を救ふ事件」「眼」「おなつ雨」「バット馬鹿の告白」「隠者」の5篇収録。
(3)神戸市立中央図書館の「ふるさと文庫」で手に取れるのは『日本短篇文学全集 35巻』(筑摩書房、1969年)、『モダン都市文学 5巻』(平凡社、1990年)。書庫には他にも全集収録本がある。
(4)「歴史と神戸93号」(1979年2月)所収「神戸図書出版ノート昭和期戦後」福岡映子論文「海事図書出版の老舗海文堂」

(2008年9月記)


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【第11回】本屋のこと、思い出すままに(11)
   平野義昌(海文堂書店)


 村田耕平氏のこと(4)
 いよいよコーべブックス編ですが、その前に訂正を。
 以前に、村田耕平氏(以下、敬称略)が「文開堂」在職のまま「コーべブックス」開設を手伝ったように書いているが、私の聞き間違い。村田は1965年(昭和40)3月を以って「文開堂」を退職し、4月から「コーべブックス」開店準備に入る。この時29歳。手元にその頃の写真を拝借しているのだが、掲載の許可をもらっていないので、今回は断念で残念。出し惜しみしているみたいで申し訳ない。期待してお待ちくださるよう。

 これまで書いたように、出版業界は問屋も本屋も含め、たいへん元気のあった時代。学参専門問屋「文開堂」もその業績を急激に伸ばした。しかし、親族経営の負の部分が現れる。後継をめぐるモメ事。村田も経営者四女の婿だから、それなりの地位を要求するなり、後継候補となってもいいはずだが、身を引く決断をする。
 一方、「コーべブックス」を開業するにあたって、5社のオヤジさんたちは、共同経営とはいえ、それぞれの本屋から人間を出すことに不安を感じていた。そこで店長として村田に白羽の矢が立った。オヤジさんたちに見込まれていたことは想像できる。長年側にいて、村田の人間付き合いのうまさは人徳と言える。私利私欲からのものではない。私が書くと冗談みたいだが、ゆくゆくご理解いただけると思う。語弊があるが、「人扱い」の巧みさというか、特にお年寄りと女性を喜ばすのは至芸の域。やはり冗談みたいか? ある人が「村田さんがおったら店の看板いらん」と言ったのを思い出す。存在感の大きさと人の心をつかむ力は若い頃から突出していたようだ。男前やし。写真を楽しみにお待ちくだされ。
 「文開堂」首脳も快く送り出してくれた。残念ながら「文開堂」は75年(昭和50)倒産する。
 開設準備室(そう呼んだかは不明)は海文堂2階の社長室。住み込み従業員用の部屋に寝泊りして作業を続けた。人員に困った。募集広告を出しても集まらず、他のさんちかタウン出店企業も同様だったのだろう。神戸新聞社(当時国鉄三ノ宮駅南東、現在ミント神戸)を会場にして全店舗が一斉に採用面接会を開いた。

 ↓[写真1]
写真1  笑い話その1。飲食店と間違えたおばあさんに「洗い場でもいいから雇って」と懇願されたとか。
 当時、雇用側も労働者もパートタイムという考えというか、働き方はなかった。すべて正社員としての採用。「コーべブックス」の採用は、男性1名、女性6〜7名(村田の記憶)。この第1期生のうち私が知る人はお一人だけ。基本給1万5000円、手当がついて3万何千円だったそうだ。
 1965年(昭和40)9月オープン。店舗の場所は地下街最南部東側、国際会館寄りのゾーンで20坪。書架は日東舘石丸社長のつながりで、神戸手作り家具の老舗「永田良介商店」製。カネと手間がかかっている。
 笑い話その2。凝った書架で、ウインドウ側に面陳できるのだが、これが悲しいかな本の出し入れに「往生する」という、現場の嘆き。写真で確かめていただきたい[写真1=ウインドウ側]
[写真2=店内側]

                                         ↓[写真2]
写真2
 入口のウインドウ広告[写真3]は文藝春秋新社(当時「新社」がついた)の小林秀雄編集『現代日本文学館』定価480円。店内の平積みで書名のわかるのは、中央公論社『世界の名著 第1回 ニーチェ』に、河出書房新社『カラー版 世界文学全集』[写真4]。講談社の『吉川英治全集』もあるそうだが見分けられない。これら平積みも棚の本もほとんどが四六判函入り、菊版函入りの重厚な本だ。村田が言うに「本として値打ちがあった」。海文堂の福岡店長が口癖のように言う「古本はエエ顔してる」に通じるか? 定価が500円〜700円、800円というところ。前述の給料で私が貧乏換算(勘違いはご容赦)すると現在
の3000円4000円相当の本が堂々と積まれ、それがベストセラーだった。まさに「飛ぶように売れた」。

 ↓[写真3]
写真3



写真4←[写真4]

 経済の成長とともに戦後の民主主義・平和への意識が浸透していた時代、文化・教養も求められたということだろう。本が売れる時代はまだ続いている。出版社の大型企画も続出。中公が『日本の歴史』。特筆は河出、『カラー版 日本文学全集』『LPレコード版 世界音楽全集』『カローラ版 世界美術全集』など次々に出版。書店に対する報奨商品で村田が記憶するのはカメラ。当時としては高価豪勢なもの、企画説明会で先に渡されてしまうから、本屋も積極的に売らざるを得ない。『音楽全集』を地下街の電器・レコード店に協力してもらい(利益折半)、数百部販売した。
 67年(昭和42)の地下街改装で60坪に増床して最南部西側に移る。これも前に書いた、ワンフロアでは当時最大級の書店、業界の話題となった。

 ↓[写真5]
写真5  最後の1カットは「コーべブックス」開店当時の店頭風景[写真5]。ショーケースを見ている女性と男性の写真があるが、ケース側は別の店舗。仕切りがなく、たぶん額縁・画材のお店だとか。

 10月22日、宝文館代表で兵庫県教科書株式会社会長の柏秀樹氏逝去。享年74。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

写真提供=村田耕平氏

(2008年10月記)


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【第12回】本屋のこと、思い出すままに(12)
   平野義昌(海文堂書店)


 柏秀樹さん(宝文館代表、兵庫県教科書株式会社会長)のご逝去(10月22日)について、ありきたりのお悔やみで終わってしまった。何度かご挨拶をしただけ、優しい声の方でした。本屋の話をぜひ伺いたい方でした。思い起こせば小学生・中学生の頃、宝文館で本を探し選び、長時間ボーっとしていても注意されることもなく……、遊び場にはしていないけれど、貴重な憩いの空間だった。あそこで肉体労働者風のおっちゃんがごっそり本を買う場面に出会わなかったら、私は本屋に勤めることなど考えなかったかもしれない。
 現在、宝文館の看板・シャッターは「兵庫県教育図書販売(株)」に替わっている。「宝文館」の文字は片隅に残ってはいるものの、神戸で一番の老舗が姿を消した。

 海文堂あれこれ(その1)
 (1) 床
 ↓[写真1]
写真1  海文堂1階の床に東西に3列[写真1]、児童書ゾーンの南北に1本[写真2]、溝のように細長い金属の蓋がしてある。わずかな段差がある。海文堂増改築の歴史だ。入口から1列目までが旧店舗。2列目までが倉庫と岡田家の住まい。現在の新潮文庫の棚あたりで、岡田節夫取締役(以下敬称略)が誕生した。2列目から3列目が最初に鉄筋化した建物部分。児童書ゾーンは別棟
で、 ここが「海文堂出版」。隣の洋服屋さんとの隙間が出入り口につながる通路だった。現在の店舗になったのが1976写真2 年(昭和51)。床は磨耗やヒビも目立つ。ここにも店の歴史がある。決してガムなど捨てぬよう願う。
                        →[写真2]

 (2)ブックカバー(書皮)
 現在使っているブックカバーは紺地に帆船の文庫・新書用[写真3]と白地の単行本用[写真4]。節夫の友人で「大丸」のデザイナー・北田英一氏のデザイン。81年(昭和56)から使用している。好評をいただいていて、『カバー、おかけしますか? 本屋さんのブックカバー集』(出版ニュース社、2004年、2625円)にも収録されている。06年には第22回書皮大賞を戴いた。先代のカバーは、黄色地で片面に帆船1隻の絵、もう一面に室生犀星の詩『本』と椅子に寝転び本を読む人の絵[写真5]。デザイン者は不明。1950年代中頃から約25年使用したという。残念ながら印刷原版が残っていないし、現物も節夫の手元にある1枚のみ。写真で詩を読み取れるでしょうか?

↓[写真3]                        ↓[写真4] 写真3 写真4
写真5
                        →[写真5]
  
  本をよむならいまだ
  新しい頁をきりはなつとき
  紙の花粉は匂ひよく立つ
  その賑やかな新緑まで
  ペエジにとぢこめられてゐるやうだ
  本は美しい信愛をもつて私を囲んでゐる

 画家で書物愛好家・林哲夫氏がブログで取り上げてくださった.


 出典は『第二愛の詩集』(文武堂、1919年)、元本は恩地孝四郎装幀、と教えてもらった。創業大正3年の海文堂が元町に出て来たのは大正12年だそうだが、元は海事出版社で、総合書店となったのは戦後だと聞いたような記憶がある(ご教示を乞う)。椅子のデザインから考えて戦後だとは思うのだが……。
daily-sumus 2008年10月18日 http://sumus.exblog.jp/9712287/ より

 ↓[写真6]
写真6  林さんは、もう一代前のものと思われるカバーを古書店から入手しておられる(詳しくは daily-sumus 2007年10月3日 http://sumus.exblog.jp/7528190/ の項を)。
これを知る海文堂関係者は何人いるだろう?
 現行カバーは店の看板である。83年に、臙脂の地に帆船のイラストのものを使用した
[写真6]
。これがお客さんに不評だったとかで元
に戻したが、それで正解。その臙脂カバーも岡田の手元に1枚あるだけ。書皮友好協会のディープなコレクター数名が所有しておられる。

 (3)2階港町グッズ
 海事書は、海文堂の原点であり主要商品であることに間違いない。しかし、今般雑誌などから取材を受けるのは全国の海洋博物館や船会社の雑貨品コーナー。人呼んで、と言うより自称「港町グッズ」。仕掛け人は海事書担当の後藤正照(通称ゴット氏)。書店経験は多分海文堂で一番長いと思われる。私と同い年だが、アルバイトから本屋勤めをしている超のつくベテラン。元々2階では廃船から買い受けた備品を販売していたが[写真7]、ゴット氏がコツコツと仕入れを開拓してきた。海事書については、特殊専門分野ゆえ、元来出版元との直接取引が多い。2階売り場だけで40数社ある。「グッズ」だけで15社。「日本郵船」が最も多く、大人気の船型定規をはじめ、ピンバッジ、限定切手など75品目ある[写真8〜12]
 ゴット氏はまだまだ「グッズ」を増やしたい意向だが、本の世界とちがい取引形態は「買い切り」が主流、交渉に苦労が多い。海事書については、別の機会に。

 ↓[写真7]                     ↓[写真8]
写真7 写真8
 ↓[写真9]                     ↓[写真10]
写真9 写真10
 ↓[写真11]                     ↓[写真12]
写真11 写真12
 ↓[写真13]
写真13  (4)訓示?
 1階中央ご案内カウンターに、海文堂「中興の祖」岡田一雄の「わが社の信条」を記した小さな紙が貼られている[写真13]。組織を株式会社にし、一雄が社長に就任したのが1948年(昭和23)で、その頃の決意表明だろう。「出版」が独立して「海文堂出版株式会社」になるのが、この10年後。
 この「信条」の前に毎日長い時間座って拝んでいるのが、福岡店長(筆者註―この一文、特に深ーい意味があるわけでは……)。
写真14  もうひとつ、2階の休憩室横の額にあるのが「岡田徹」なる人のことば[写真14]。私は入社以来、一雄の縁につながる人の言と思って、心の糧としてきた。節夫取締役にいかなる人かと問うと、「何の縁もない人」で、机の奥から出てきたものと。正直、ズッコケた。勝手に想像すると、一雄が座右に置いていたが、掲示して説明するのに「赤の他人」と言うのも憚られたのではないかと。
                       →[写真14]
 海文堂では毎日朝礼をするが、これらの「ことば」をみんなで唱和したりはせぬ。念の為。

(2008年11月記)


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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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