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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第13回 第14回 第15回


【第13回】本屋のこと、思い出すままに(13)
   平野義昌(海文堂書店)


 村田耕平氏のこと(5)
 世界同時不況下のご時世、ちょっと景気の良い昔話で、怒ってください。
 1967年(昭和42)の「さんちか」改装で南端東部分に60坪に増床して移転する。新しく飲食街ができ、空いたスペースに移転希望を地下街営業責任者M氏と交渉した結果。このM氏が、書店を誘致する際、5社共同出資の「神戸出版販売」に声をかけてくれた。新聞記者出身で文学・芸術に造詣が深く、美術展などの文化催事はすべてこの人が取り仕切っていた。引退後も村田耕平氏(以下、敬称略)との交遊は続いている。
 移転当初、思惑通りの売り上げはなかった。半年たってようやく、ということだ。前にも書いたが、当時ワンフロア60坪の本屋は前代未聞で、業界の話題になる。この頃、後の主要メンバー・幹部となる人や個性派が続々と入社している。面接・採用は北風一雄氏(旧・南天荘書店代表取締役/旧・コーベブックス専務)がひとりで担当していた。
 品揃えも充実してくる。「岩波」や「みすず」など人文書が大いに売れた。全集でも平積みしたし、弱小・硬派出版社も積極的に並べる。豆本や限定本コーナーもあり、顧客がついた。個性派が棚を構成して満足する、という批判があるかもしれないが、それが売れた。また、工学書が好調で、工学書協会担当者が「地下街の書店で工学書がこれほど!」と驚くほどだった。村田によると、市役所がすぐ近くにあり、土木・建設部署の人たちや入札の会社関係者の需要が大きかった。
 国土地理院の地形図の売り上げがすごかった。それこそ「飛ぶように」。開店前に行列ができ、ほとんどの人が地形図を求めるという時期もあった。私、またもや浅はかな質問をした。
 (ひ)「なぜ、それほど地形図が売れましたん。登山やハイキングに行く人が増えた?」
 (村)「そういう人もおるやろけど……。まず、取扱店が少なかった。それから、全国に都市開発・再開発の波が押し寄せていた。産業用いうことや」
 仕入先は大阪の地図専門問屋「地図共販」。担当営業マンは多い日は1日に3回電車で届けてくれたという。村田は、その人の真摯な仕事ぶりには今も頭が下がると言う。
 70年代になるとますます業績が上がる。1日の売り上げが100万円を超えると皆に大入り袋が出た。形だけの祝儀ではない。読者諸氏はびっくりするだろうが、その額1万円。大台を突破する日が増えてきて、やがて給料に組み込むようにした。今も三宮ブックスを手伝うT女史はこの大入り袋経験者。「大丸でン万円の靴買ったわ」と。
 1日の売り上げが最高時で300万円を超えた。坪当たり1日5万円である。現在の1000坪の超大型書店が1日5000万円の売り上げという換算だが、このご時世にそんな店があるだろうか。
 私には「コーべブックス」というと、とにかく、いつも混んでいるという記憶しかない。一旦入ると出るのに苦労する状態。高校・大学時代、入るのをあきらめ西の「流泉書房」に向かうというパターン。この「混んでいる」状態に、よくお客から「通路に本屋つくりよって」と怒りの声があった。メイン通路ではないが、市役所につながる導線となるよう設計されていた。そこに常に「混んでいる」本屋が出現したのだから、怒りの声もわからぬではない。
 村田の記憶に残るブックフェアは「筑摩書房全点フェア」。三島由紀夫の自殺後間もない頃で、生原稿を展示して評判になった。フェアも大成功で、この後全国で展開されることになった。
 作家のサイン会も数多く開催した。思い出すのは I木H之。直木賞受賞後の血気盛んな頃で、来店しながら、芸能人ではないから人前でサインしたくないと拒否した。村田が、大勢のファンが待っていると説得して開催する。今度は、サインペンはダメ、「毛筆だよ」で、筆と硯を買いに走る。しかし、これがお上手ではなく、ひとりずつに時間がかかることになる。
 田辺聖子さんも印象深い。取り巻きのマダムたちと来店。終了間際にTVクルーがやって来た。取材の話は事前に聞いていない。事情を訊ねると、向田邦子さんが航空機事故で亡くなったと言う。大親友の田辺さんのコメントをもらおうと、スケジュールを調べて訪れた次第。村田が田辺さんに説明。とたんに「顔面蒼白というのはああいうことやな」という状態。ともかくあと数人にサインをすませて、ハイヤーで帰ってもらった。
 コーべブックスの躍進に欠かせないのが某新宗教団体の出版物。創業当初から積極的に取り組み、ほとんど独占状態。当時須磨にあった本部にトラックで運んでいた。団体の担当者は後に幹部となった人で、今も親交が続いている。
 コーべブックスの決算報告・株主・重役総会は毎年花隈の料亭で開催された。最初から利益を出し、税金も納め優良法人(当時5年間税務調査が免除)となった。69年(昭和44)の総会で、村田は功績を認められ役員の一員となる。5人の株主=本屋のオヤジさんたちの中で1人別格というべき人がいる。海文堂の岡田一雄社長(当時。以下、敬称略)だ。工学書協会加盟出版社社長という「顔」は、村田には商売人というより経済人という印象だった。実際の「顔」は違うのだが、これはまたの機会に。その岡田が「ご苦労さん」と労ってくれ、盃をくれたのだった。

(2008年12月記)


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【第14回】本屋のこと、思い出すままに(14)
   平野義昌(海文堂書店)


 取材先多忙で、2回連続延期。ネタがないので、モノの本に頼る。
 まず、宮崎脩二朗氏(以下、敬称略)の著書『環状彷徨――ふるさと兵庫の文学地誌』(コーべブックス、1977年)から。宮崎は元神戸新聞記者で、新聞社を中心にした会員制出版「のじぎく文庫」(昨年創刊50年を迎えた。現在は一般市販している)の初代編集長を務めた。現在、神戸史学会代表、神戸市消防局のPR誌『雪』で健筆を揮う。兵庫郷土史・文学研究の第一人者。
 「元町文学散歩」の章を見る。3丁目生まれの十一谷義三郎と5丁目の美術商で奉公した菊田一夫については以前紹介した。他に元町縁の作家・文筆家を探す。
 4丁目に「美田金銀べっこう店」(美田宝飾店、美田時計店。のち3丁目に移転、数年前に廃業)があった。1884年(明治17)祖母の妹を訪ねて少年河井又平が滞在した。明治の代表的詩人河井酔茗(1874〜1965)である。同家に下宿していた青年の影響を受け文学熱にとりつかれる(宮崎は青年の名と書名も記載している)。宮崎は酔茗に取材したことがある。「私の文学のふるさとは、言ってみれば神戸なんですよ」と語った由。
 岩波文庫『酔茗詩抄』が家のどこかにあるはずだが、見つからぬので、『新潮 臨時増刊 日本の詩101年 1890〜1990』(新潮社、1990年)から「稚子の夢」を紹介する。不思議なリズムの恋の詩。

               そらに きみの こゑを きけり
               むねと むねと かげと かげと
               そらに あひて こゑを きけり
               たびの ひとの みては かへる
               ふるき かべに うたを のこし
               きみと ともに そらを あゆむ
               ふかき もやは ゆくに ひらけ
               うみは とほし しまか やまか
               うごく ものは みえず なりぬ
               きしと きしの はやき しほを
               およぎ こえし こひの もさは
               ひとの くにの ものに みえぬ
               われら ふたり いかに はてん
               われの すがた くもと きえて
               きみは たかき ほしと なるか
               そでは まどひ おびは のろひ
               ひとの きぬを とみに ぬぎて
               きみは ちさく ちさく なりぬ
               ちちを さがす ちごの ごとき
               きみを だけば わがて かろし
               まこと こひは ちごの ゆめか

 江戸川乱歩が横溝正史を訪ね、たびたび神戸に来ている。1926年(大正15)に横溝と共に深夜の元町を歩いた印象を記している。

 屋根の上にね「ホイ」と声を出して、思はず立ち止まる様な、怪物の目玉が、ギラギラ光ってゐるのですよ。
 それが何だといひますと、商家の看板なのです。妙にチンチクリンな青銅の弁慶が太い鉄棒をふり上げて、往来を睨みつけてゐたり、われわれの二倍もある様な大黒様がニヤニヤ笑ひながら、屋上にしつらへた硝子箱の中に、立上がつてゐたり……幽霊の様な木彫の裸女が、……これは商家の屋根の上に、ヒョロリと立つてゐたりするのです。数へて見ると、あの五六町の元町通りに、そんなのが十近くもあつたでせうか。これは東京や大阪では一寸見られない景色です。
                                           (お化人形)

 前年発表の『人間椅子』も、元町の西洋骨董屋の店先にあった肘掛椅子から着想したという。
 横溝は1926年『新青年』の編集に加わっている。
 元町通の南側が栄町通、かつての神戸ビジネス中心街。その5丁目に、観光案内・タウン誌『夜の神戸』(花柳界ゴシップ記事が中心)の発行所があった。無名時代の山本周五郎(本名・清水三十六=さとむ)が一時期在籍していた。関東大震災で奉公先の質屋が閉鎖、関西に新天地を求めた。この頃着想した作品が『須磨寺附近』(新潮文庫『花丈記』所収)。『文藝春秋』(1926年[大正15]4月号)に発表した文壇デビュー作品。人妻への愛を描いたもの。小学校時代の友人の姉がその憧れの女性で、当時神戸に嫁いでおり、幸運なことに友人もそこに住んでいたので、山本も下宿できた。しかし、彼の神戸滞在は5ヵ月にすぎない。友人の姉は夫の赴任先アメリカに行ってしまう。
 栄町通に市電が開通したのは1910年(明治43)3月。その試運転を眺めていた群衆の中に木下杢太郎がいた。異国情緒を求めて神戸に来たが、印象は良くなかったようだ。人ゴミを見て、「異人館があっていかにもハイカラらしいが、かういふ光景を見ると、明治初年の清親、国輝(引用者註――浮世絵の小林清親、歌川国輝か?)などの名所絵を見るやうで馬鹿馬鹿しくてならぬ」と厳しい。ちなみに、1917年(大正6)神戸の建築家の娘とこの地で結婚式を挙げている。
 市電を詩に詠んでいる人がいる。名は池永瑠璃之助。神戸人には本名の池長孟(はじめ)といえば通じるだろう。南蛮美術を蒐集して美術館を興した(のちに神戸市に寄付、市立南蛮美術館となり、現在は市立博物館に移管)。また、植物学者・牧野富太郎を支援して、兵庫区会下山(えげやま)に植物研究所を開設するなど文化芸術の理解者・後援者だった。その人の詩。

   栄町四丁目の停留所
   アーク灯に照らされて
   赤い煉瓦に這ふ影は
   電車に乗る人 下りる人
       (『紅塵秘抄』より)

 次の本に移る。西川光一『神戸 今とむかし』(冬鵲房、1986年)。西川は1913年(大正2)生まれ、県立高校で長く教鞭をとった郷土史家。
 「書店は1丁目北側に川瀬日進堂、5丁目南側に宝文館、その斜め向かいに日東舘があった。今とちがって、当時は春休みになると、入学の喜びにあふれた新入生が、お父さんやお母さんにつれられて、教科書や参考書を買ってもらいに来ていた。進級した中学生や女学生も三々五々、重い本の包みを下げて元町を歩いている姿がみられたものである。本屋の店先は非常に混雑して大変だったが、それだけ、元町全体が活気にみちあふれていた」
 大正末の頃のことだ。
 「川瀬日進堂」は前に少し書いた。熊谷久栄堂(明治の初めに京都の熊谷久居堂から独立、大正初めに廃業)で修業した川瀬光吉が1897年(明治29)に創業した。出版・販売に加え原書の輸入販売もした。1923年(大正12)には他書店とパワー社(東京)を設立して工学書を出版、その神戸支店を引き受けている(落合重信「神戸図書出版ノート 明治期」『歴史と神戸』91号、より)。
 時折、「川瀬書店」について問い合わせをいただくが、詳しいことをお知らせできない。業界関係者に訊いてもはっきりした年代がでてこない。商売をやめるというのは、人の記憶から消えていくということなのだ。残念ながら、おおよそのことしかお伝えできない。
 郷土史家・安井裕二郎氏によると、昭和の初めに関西学院が神戸・原田の森から西宮・上ヶ原に移転した際、同学院の教科書を引き受けていたため、近くの宝塚・仁川に支店を設けていた。空襲で元町の店がダメになり、仁川に移転した、ということだ。安井氏からは他にも資料を提供していただいている。次回紹介できればと思う。
 「川瀬」の代表者は書店組合で長く中心的存在だった。ベテランの出版営業氏によると、大学の近隣とはいえ、岩波・有斐閣をはじめ専門書をきちっと揃えた本屋だったとの事。しかし、大型の支店出店が失敗、2001年(平成13)頃廃業する。書店組合関係者も正確な年代を記憶していない。名簿では2002年に掲載がない。店がなくなるということは、人の記憶からも消えてしまう、ということなのだ。
 元町1丁目当時の店内を写した絵はがきがあり、そのスライド写真を見せていただいたことがある。
小学館の広告看板  この原稿を書いている時、ビンボ・ヒマナシみずのわ出版に、愛媛県西条市栄町通3丁目「佐藤日進堂書店」からメールが届いた。検索していて当連載を発見されたそうだ。おじいさまが「川瀬日進堂」で修業、1921年(大正10)帰郷し創業された。お嬢さんが今年関西学院に入学されるとか。「川瀬日進堂ゆかりの本屋が四国に細々と生き残っています」とある。うれしいお便りで今回は終わる。


                [お店の中二階倉庫からの出土品↓→]

佐藤日進堂書店 レトロ占い本
木の看板 レトロ本

レトロ地図




=写真提供 佐藤日進堂書店
 (愛媛県西条市栄町通3丁目)


[本文記載以外の参考文献]
『兵庫県大百科事典』(神戸新聞出版センター、1983年)
『新潮日本文学アルバム 山本周五郎』(新潮社、1984年)
『文豪ナビ 山本周五郎』(新潮文庫、2005年)
*山本周五郎には興味深いエピソードがいっぱいある。幼少時代、ペンネームの由来、奉公先でのことなど。作品と同じ暖かみを感じる。

(2009年1月記)


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【第15回】本屋のこと、思い出すままに(15)
   平野義昌(海文堂書店)


 前号の「川瀬日進堂」について、郷土史家・安井裕二郎氏、林哲夫画伯から新たな資料を頂戴している。整理のうえ次回以降、順次紹介する。
 また、オックスフォード留学中の通称・大狸教授からメールをいただいた。「川瀬」は英文学先達の本も出版していて、「英文学徒にとっては恩人にあたる書店」「本と人の結びつきは素晴らしい」と。教授は今春、パブ巡りという名の研究を終え次第、帰国される予定だ。「川瀬」について貴重な資料をお持ちだそうで、お帰りを楽しみにしている。

 村田耕平氏のこと(6)
 コーべブックス最初の支店は三宮・交通センタービルの2階、4坪の文庫専門店。1967年(昭和42)5月のこと。このビルは2階部分でJR(当時国鉄)三ノ宮駅と阪急三宮駅につながる。名前のとおり交通・旅行社が多く入居していた。神戸地下街株式会社の事務所もあったし、コーべブックスはじめ出店企業も事務所を構えていた。
 当時、文庫専門店は珍しく、他書店の見学・訪問が多かった。この後の出店は73年までない。さんちか店が絶好調だから支店展開をする必要がなかったのだろうが、全国区の大店舗進出の危機感とか、コーべブックス自体の店舗戦略というのはなかったのか、村田耕平氏(以下、敬称略)に訊く。
 「経営者は積極的ではなかった。何と言うても同業5社の共同経営やから」
 チェーン店など大それたことは考えていなかったが、次の展開を考える。さんちか店で置ききれない児童書や学参をやりたい、従業員のより安定した生活をはかりたい、社員教育の場がほしい、など。
 出店の話がきた。こういう話はディベロッパーから直接と思っていたが、当時はレジスター・メーカーが仲介したという。機械を通じてさまざまな小売業種と取引があるし、何より機械が売れるわけだ。そういえば、NHKのドラマ「おしん」で主人公が店を大きくした時、金銭登録機メーカーが品揃えなどアドバイスをしていた。
 伊丹店は小規模だったから、出店はすんなりと決まったようだ。高槻店は100坪超、なかなか決定できなかった。共同経営の弊害というか抑制というか、役員たちの了承が得られない。ディベロッパー・西武百貨店からかなり叱られたらしい。
 73年両店が開店、となるはずだった。しかし、西武高槻ショッピングセンターが開店4日前の朝、焼失してしまう。警備員が精神的におかしくなっての放火事件だった。西武も出店企業も地元も大きな損失を被る。後に「ここでやめておったら……」、言うて詮ない意見を聞いたし、外部から「保険金出たやろ」という無責任な声もあった。
 それでも、1年後開店する。児童書と学参に力点を置いた構成だったが、文学・人文・理工・経営といった、さんちか店の主力商品も欠かせなかった。というのも、高槻市は工業都市(食品や薬品)の側面と同時に大阪・京都の中間に位置する住宅地で、いわゆるインテリ層の多い地域だった。今でも忘れられないのは、新しいショッピングセンターに旭屋書店が出店した時の、ある顧客の怒りだ。
 「あの本屋は高槻市民をバカにしている。詩のコーナーがない!」
 ターゲットのひとつ、インテリ層はある程度つかんでいただろうが、なかなか売り上げは上がらなかった。百貨店の営業時間は10時から18時、土・日が19時まで、毎週1回定休日と、規制のあった時代。土・日が頼りだった。当時としては大型出店で、取次会社も喜んで協力を約束するが、思惑どおりの売り上げがないと、手のひらを返す。コーべブックス全体の取次への支払い成績が悪化した。
 私は1976年(昭和51)入社してすぐに高槻に配属された。4年後、増床して5階に移動、営業時間も延長され20時までになった。それから数年して、ようやく単独で採算が取れるようになったと思われる。私は移動の1年後に退社している。
 サンこうべ店が74年(昭和49)にできている。さんちか店と同じく神戸地下街株式会社の開発。神戸駅(国鉄)の北側に市バスのターミナルができ、その地下街。既に阪急・阪神・山陽の各私鉄が乗り入れていた駅とつながり、賑わった。この店は最初から繁盛した。
 コーべブックスの経営にとって、高槻店ともうひとつ不採算部門が出版だった。北風一雄の肝煎りで74年に始めた。編集部責任者、渡辺一考氏は今でも業界で伝説的な人。異端といわれる作家との交流が深く、中学生時代から古書蒐集者としてその名を知られていたという。最初に手がけたのが、岡田夏彦編『運命の書――古版マルセイユ・タロット』。これは好調だった。フランス文学、句集、歌集など多くて初版1500部。本によっては、別に小部数の特装版を出した。著者はもちろん、装幀者も厳選し、挿絵に直版画を入れ、紙を選び、活字をデザインし、凝りに凝った本作りで定評があった。しかし、関係者・取引先への支払い、接待、出張営業など経費はバカにならないし、どの本屋でも扱える本ではない。社内は賛否真っ二つだった。個性派を含め若手は、本屋の出版を誇りにしていたと思う。私は新米の憧れ・思い込みだったろう。ヴァレリー・ラルボーの『罰せられざる悪徳 読書』が、新聞でやや批判的に紹介されたのに、憤慨したことを覚えている。それで、おまえは自社の本を買って読んでいたのか? と問われたら答えはノーだ。難しすぎるというか、私が読んで理解できるとは思えなかった。退職してから古書店で『環状彷徨』を買った。当時、編集の手伝いをしていた現在同僚のゴットさんは、何冊も所有していたが、残念ながらすべての蔵書を地震で失ったそうだ。
 私は今、身近に「みずのわ出版」柳原社主の苦闘を見て、志の高さを尊敬するものの、経営の困難さを思い知る。いくらコーべブックスの本業が黒字でも、その稼ぎで出版を維持するのは不可能だった、と言わざるを得ない。しかも大型不採算店を抱えていた。
 78年(昭和53)出版は打ち切りとなり、編集長は独立し、「南柯書局」を設立し出版を続けた後、修業経験のある料理人の世界に入る。現在は東京六本木でモルトウィスキー専門バーを経営、時折評論を書いている。
 出版について誤解・認識不足があるかもしれない。当事者の方々に怒られることは覚悟している。出版物のことについては別の機会に。
 以前に触れた北風一雄の経営の「負」の部分が、「高槻店」と「出版」と言える。経営状況が悪くなると「責任」の問題が出てくる。役員にはそれぞれの店の経営がある。結局、「北風・南天荘」が出資額を増やすことで事態を収拾するが、この時に「南天荘」本体に大きな負担がかかったということだ。で、北風の長男がコーべブックスに重役入りする。ここで共同出資の形が崩れる。
 長男の最初の仕事は、倉庫に溜まった出版物の整理・処分だった。村田も一緒に、真っ黒になって片付けたという。
 経営の形が崩れたのは役員経営者だけではなかった。村田にとって、またも人生の分岐点が訪れたのだ。

(2009年2月記)


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 *画像をクリックすると、本の詳細へジャンプします。 「本屋の眼」

平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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