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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第16回 第17回 第18回


【第16回】本屋のこと、思い出すままに(16)
   平野義昌(海文堂書店)


 海文堂書店のこと(3)
 久々に海文堂の話。岡田一雄氏(以下、全員敬称略)の長女A嬢に訊く。前社長・島田誠夫人。隠す必要はないかも知れないが、今は会社と直接的関係はないので仮称にする。
 岡田一雄の死は1973年(昭和48)5月。前に、「早すぎる死」と書いた。61歳、食道がんだった。体調不良を感じ検査するが、当時の医療では早期発見とはならなかった。病因がわかり、東京で手術するのが死の前年、そこで事業後継が具体化する。長男・吉弘は東京でNK銀行勤務、次男・節夫も東京、KO大学在学中。出版は長男、書店はA嬢の婿で神戸M菱重工のサラリーマンだった島田が引き継ぐことになった。一雄の意思は家族に継いでもらうこと。本来なら自ら、経営者としての教育をするところだが、そんな時間の余裕はなかった。後継者たちは20代で他業界からいきなりトップに立つという、人生の大転換だ。その苦労は察してあまりある。
 書店部門では、当時一雄は会長で、大番頭・清水が社長を務めていたから、当人同士も従業員も混乱があって当然。出版も同様だったであろうことは想像に難くない。
 島田は76年(昭和51)の改装で2階に美術画廊「海文堂ギャラリー」を開設する。海事書の「海文堂」を、「ギャラリーのある本屋」として全国的に有名にした。部外者だった私はそういう感想を持っている。店売も清水から小林良宣(前店長)に引き継がれていく。
 ギャラリーは文化人が集うサロン的役割もあった。島田は芸術活動のサポーター・コーディネーター役を数々引き受ける。91年(平成3)創設「公益信託・亀井純子文化基金」――若手芸術家支援――、95年(平成7)の「アート・エイド・神戸」――阪神・淡路大震災後の芸術文化活動による復興支援活動――は高い評価を得ている。
 現店長・福岡宏泰はちょうど“バブル”の時代に、ギャラリー部門を担当した。絵が売れて毎日梱包・配送作業に明け暮れていた。金融業界から本屋に入ったのに、任された仕事が絵の荷造りというのでは、本人、かなり抵抗があったことだろう。
 島田は幅広い活動で書店の看板・広告塔となり、メディアにもたびたび登場するが、目立ち過ぎると、業界内で反感やらヤッカミが起きるのは、世の常だ。
 “バブル”崩壊、大震災のダブルパンチで、神戸経済が大打撃を受けたのは周知のとおり。本屋業界も直撃を受けた(これについては別の機会に)。海文堂はいち早く再開するが、ギャラリー・店売ともに売り上げは年々落ちてゆき、2000年(平成12)島田は退任する。新たに北野・ハンター坂にギャラリーを開設、「アート・サポート・センター神戸」も創設して文化支援活動も継続する。退任の直前に、ノンフィクション作家・佐野眞一の『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社、2001年)の取材を受けて、こう語っている。
 「いま『本』というとき、商品という見方をすれば、雑誌もコミックも全部入っちゃうわけじゃないですか。私にいわせれば、文化に値しないものまで同じ再販制度で守られている。でも、うちはあくまで守っていきたいんですよ、『本』という文化を」
 「私が経営者としてダメだと思うのは、本をみて売れる、売れないで決めてはいないということなんです。つまり好きな本を売ってしまう(笑)」
 「文化」至上主義に反感があるかもしれないが、こういう主張があっても、当然良い。
 書店は長男が社長を兼務し、現在に至る。
 前置きが長くなった。A嬢による「岡田一雄」の姿である。当初、A嬢に取材するつもりはなかった。夫の退任で一番苦しんだのは彼女であろうから、遠慮すべきと思っていた。ご近所のパン屋さんと親しく話すうちに、奥様がA嬢と幼なじみとかで、思い出話をしてくださった。ごく古い話ならば、と勝手に考えてお願いした次第。脱線するが、このパン屋さんの場所で、かつて奥様の父上が古本屋さんをしていた。海文堂の顧客でミステリ研究家・野村恒彦の著書『神戸70’S青春古書街図』(神戸新聞総合出版センター、2009年)にも登場する「こばると書房」だ。

 何度か書いたように業界での「岡田一雄」評は、「謹厳実直」「本屋のオヤジというより工学書出版社の社長」「笑わん殿下」など。海文堂西隣の紳士服「ヒシマン」経営者(次男と同世代)にこの話をすると、「ちゃう、ちゃう、おもろい人やった。酒呑みでなあ、大酒呑みや」と懐かしんで昔話をしてくださった。どの店舗も奥や2階が家族の住まいだった。いま、元町3丁目で居住しておられるのは数軒だろう。冬の時期、防犯・防火活動で若い衆が夜回りをした。集会所に近所の住人が集まり、煮炊きをして彼らを労う。一雄も差し入れの酒を持ってやって来る。若い衆を送り出して、彼らが帰って来る頃には、「おっさん、呑んでもて、もうあれへん。目ぇ据わってもてなあ。エエカゲンな、おっさんやでー」と笑う。
 家庭では、良き夫・父親であったことは間違いない。A嬢によると、優しいが、しつけ・作法にはうるさかった。当時、住み込みの従業員も一緒の大所帯、母親だけでなく賄いの係の女性もいて、食事も一緒。銘々の鉢・皿であっても、一旦箸をつけたら全部食べること、残してはいけない、箸をつけなかったら他の人に食べてもらえる。
 一雄がよく口にしたことばを覚えている。「暮らしは低く、思いは高く」。イギリスの詩人・ワーズワースの詩だそうだ。「ぜいたくは敵、と言うより、ぜいたくなどいつでもできるという余裕を持つ」ということだと、A嬢は父の姿から解釈した。
 ケチではない。自分も子どもたちも身に着けるもの、鑑賞するものは“本物”“一流”を第一とした。しつけにも通じるが、“本物”を知ることで、子どもたちが、いつ・どこに行っても困らない、あわてないように、という思いからだった。
 映画と音楽が好きでおしゃれな人。また、新しいものが好きだった。現在のファクスの前身といえる機械(送受信に半日かかるというもの)をいち早く導入したし、新たに世に出た電化製品はすぐ購入した。
 東京で新内節(浄瑠璃の一派)を習う。家で練習するのだが、家族は「変な声出してー」と迷惑がる。発表会があっただろうが、「行ったことないし、行きたくもなかった。けど、来てほしかったやろなあ。行ってあげたらよかった」。
 一雄は月に1週間は東京暮らしで、毎回おみやげがある。A嬢、長男のものは覚えていないが、次男には決まって最新のおもちゃだったと。彼女はお菓子や流行のバッグをねだるのだが、お目当てのものといつも違う。怒って、ふくれて……。一雄は「ごめんな、ゆっくり探せんかってん。こんどはちゃんと買うてくるから」と言い訳したり、宥めたり。
 A嬢、「ほんまに忙しいのに、わがままな娘やった。お父ちゃん、ごめん」と冗談交じりに言うが、本心だろう。
 夏休み、一雄は東京行きに合わせて、子どもたちと関東方面を旅行する。いつも「特2、食堂車」。なじみの旅館の料理にA嬢が不満、また宥めて……。困っている父親の姿が思い浮かぶ。
 それでも、わがままA嬢、一雄が食事中に考え事をしている姿や、絶対に近寄ってはならないと言われていた社長室のことを思うと、経営者としての苦悩を想像できたと言う。
 最後に、「奇しくも」というエピソードを紹介する。A嬢、南天荘・北風一雄の長女B嬢と女学校で同級生だった。A嬢が海文堂の娘と知ったB嬢、「南天荘って知ってる?」と話しかけると、A嬢「そんな店知らん」と一言。
 「本屋いうたら、日東舘と海文堂と宝文館しか知らなかったもん。ほんまに高慢な子やったと思うわ」
 この話は、両家でも父親同士でも話題になったよう。A嬢とB嬢、これをきっかけになかよしになった由。

(2009年3月記)



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【第17回】本屋のこと、思い出すままに(17)
   平野義昌(海文堂書店)


 4月21日未明、コーべブックスさんちか店次長だった津村覚(さとる)さんが急死された。大動脈解離、63歳だった。大阪の出版社フォーラム・Aの営業を手伝っておられた。コーべブックスの同窓会を計画、先日海文堂にも来られたそうだが、私はお会いできなかった。ご冥福をお祈りいたします。余談だが、長男氏は学生時代2年あまり三宮ブックスでアルバイトをしてくれたし、奥様も最後の1年ちょっと手伝ってくださった。彼女はコーべブックスの第1期生である。

 村田耕平氏のこと(7)
 4月2日インタビューに伺うと先客あり。村田耕平氏の旧友・牧野修三氏(以下、お二方とも敬称略)。私も三宮ブックス時代から存じ上げている。名刺を見ると市内の私立学校理事の肩書き。出版社勤務時代から保護司、学校評議員として青少年教育の現場に立っている。
 村田との交友は半世紀を超す。若き日、牧野は大手学参取次「日教販」の営業マン。村田とは同い年で、どこの本屋でもぶつかる商売敵。前に紹介したように、当時最大手・旭屋本店の注文は、欠本を見つけた早い者勝ち。さらに、書店担当者が問屋営業マンと棚を見回り、担当が「○○がないなあ、君とこあるか?」と皆に訊く。”あります”と答えると、「ナンボで出す?」と仕入れ正味の交渉がその場その場で始まる。毎日正味が違うということ。そうやって、村田と牧野で注文を取ってしまうことがたびたびあった。
 後、牧野は教科書・学参出版「清水書院」に移る。
 当時を回想する。「そら、重労働やった。そやけど、それが当たり前で、今思うたら、楽しかった」
 さて、この日は村田に「ジュンク堂」三宮出店時の話を訊くつもりだった。大日本印刷への株譲渡のことも情報をもらえれば、と思ったが、この時点では業界紙の報道だけで、直接的情報はないので何も言えない・わからないということだった。
 「ジュンク堂」は1976年(昭和51)現社長工藤恭孝氏(以下、敬称略)が創業。前身は元町通3丁目にあった「大同書房」(私の記憶では、ここで本を買っていない)。取次会社「キクヤ図書販売」が親会社で、文字通り工藤の父が社長。「ジュンク堂」の名称は父の名が由来というのは有名な話だ。
 300坪を超える本屋が三宮の一等地に出現するのだから、当然まわりの本屋は動揺する、反対する。新規開店に賛成・反対というのは妙な話だが、書店組合では容認するかどうかで、もめにもめた。当時の理事長が容認派とみなされ、辞任する騒ぎになった。「コーべブックス」はこの問題に関知しなかった。この頃、村田は組合に関わる立場ではない。本屋の一重役にすぎなかった。また、繁盛店としての自信があっただろうし、いずれ大型店ができることは想定していただろう。北風一雄専務も同様だったろう。
 工藤が「コーべブックス」を訪問し、村田と話をする。
 村田「たいへんやな。コーべブックスが出店に反対して、どうなるものでもない。でも、賛成もしない」
 工藤「当然のことです」
 しかし、工藤はこの会談で「光明を見出した」と、後に村田に語っている。
 この「反対も賛成もしない」ということばで、今度は村田が組合の反対派からつるし上げられた。
 村田は反対運動に疑問を持っていた。この人たちは「経営努力」をしているのか? また、大いなる「被害妄想」ではないのか?
写真1  その後も「ジュンク堂」の新規出店は、常に組合でもめることになる。
 「ジュンク堂」が組合を脱退せず、各店舗単位で加入し続けているのは、組合幹部としての村田を信頼しているからだろう。公正で献身的に運営していることは、多くの書店人が認めるところだ。
 村田も、工藤を評価する。創業30年ほどで「紀伊國屋書店」と並び称される書店を築き上げた経営手腕だけではない。あまり知られていないが、取次会社「大阪屋」のコンピュータシステム整備にも大きな役割を果たしている。

←[写真 村田耕平氏29歳、コーべブックス店長就任時]

(2009年4月記)



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【第18回】本屋のこと、思い出すままに(18)
   平野義昌(海文堂書店)


 いつのまにか〆切が来た。このところ海文堂の活動が忙しく、と言っても儲かって儲かってとか、売れて売れて、の忙しさではない。新鋭「赤ヘル」がブログ「海文堂書店日記」(http://d.hatena.ne.jp/kaibundo/)を開始して、私も調子に乗って書き込みをしている。おまけに、よせばいいのに、手書き通信(「週刊奥の院」)を新装して、休日を潰している次第。「みずのわ」のことはすっかり忘れていた。仕事している暇もないくらい。急遽取り掛かる。

 村田耕平氏のこと(8)
 ジュンク堂の続き。私としては同社について多くを書くつもりはない。あくまで、町の本屋のことを書きたいので、全国に超巨大店舗を出している同社は、私の手に負えない。『本屋の眼』でも同社については触れていない。神戸が出発点とはいえ、今や別世界なのだ。
 村田氏(以下、敬称略)に、コーべブックスから見たジュンク堂について訊く。
 ――まず、出店を脅威と感じたか?
「業界としたら、当時300坪以上の店に猛反対するのは当然やろ。特に、日東舘と流泉書房は大きな影響を受ける。コーべブックスはあんまり深刻に考えていなかった。6倍のスペースは話として大きいが、こっちも全盛というくらいの勢いがあった。品揃えも在庫量も自信を持っていた。自己満足の面もあったかもしれんが、それでも売れていた」
 ――ライバル登場という感じは?
「それもなかったと思う。専門知識を持ったスタッフを採用したと聞いていたけど、本屋としては素人やろから。向こうはこっちを目標にしてたやろ。しょっちゅう偵察というか、張り付いていた。『時刻表』の発売日が1日早い言うて、よくクレームをつけてきてた。(コーベブックスは)地図共販からは早よう入るねん」
 ――脅威というか、すごいなと感じ始めたのは?
「サンパル店(ブックセンター)出店の頃ちゃうかな。専門書をアピールして、図書館みたいな棚で、豪華本を並べて。話題性というか、経営戦略はすごい。こっちは、高槻店の不振という問題を抱えていたし」
 前回の工藤社長・村田会談以外にも、取り持つ人がいて、何度かふたりはプライベートで話をしたようだ。村田は工藤を人間的にも経営者としても高く評価しているのは理解できる。
 ジュンク堂の躍進についてはご存知のとおり。この春も、沖縄と台湾に出店した。その一方、大日本印刷の系列下に入った。経営状態について、知る由もない。ただ「どこまで行くんやろ?」と傍観するのみだ。

↓[写真1]元町通絵はがき。左端の店舗が川瀬日進堂。看板の字、ご覧になれるだろうか。明治末の写真。
写真1
 川瀬書店について
 ご提供いただいた資料を公開しなければいけないのだが、さぼっている。愛媛県西条市・佐藤日進堂書店の佐藤さんからも写真をいただいている(それについては、次回以降改めて……)。
 まず、林哲夫氏からの資料。
 大久保久雄監修『出版・書籍商人物情報大観――昭和初期』金沢文圃閣(金沢の古本屋さんで、書誌学資料を復刻出版)より。
・「合資会社川瀬日進堂 川瀬光吉氏 明治元年四月三日生 神戸市元町通一丁目」
・「日進堂川瀬書店 川瀬三郎氏 明治六年八月生 神戸市多聞通二丁目」

↓[写真2]川瀬日進堂書店増築記念絵はがき。外観。  ↓[写真3]
写真2 写真3
[写真3]同。店内の一部。写真2、3について、増築時期不明。今回佐藤さんから送って戴いた写真にある店内風景(次回以降ご紹介いたします)と同一と思われる。

 (要約)父は但馬出石藩士江戸詰、父の死後、光吉12歳の時神戸で熊谷書店の店童となる。明治29年元町通1丁目に日進堂を開業。「資本金僅かに四十五円で粒粒辛苦、真に血みどろの奮闘を続け」とある。弟・三郎も熊谷で働いた後、26年渡米し外国書籍の取引方法・書店経営を学んだ。33年帰国して兄を助け、原書輸入販売を開始。34年支店開設。本店・支店共教科書販売業務を拡張した。

写真4 ←[写真4]神戸新聞1925年の正月広告。後藤書店、川瀬、海文堂、宝文館の名が見える。真ん中の「日本舘書林」は正しくは「日東舘」で、安井氏によれば「気の毒な誤植」。


 ◆写真は、すべて郷土史家・安井裕二郎氏提供。

(2009年5月記)



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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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