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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第19回第20回 第21回


【第19回】本屋のこと、思い出すままに(19)
   平野義昌(海文堂書店)


 また訃報を書かなければならない。16回で話を訊いた岡田家の長女・A嬢こと、島田悦子さんが6月24日急逝された。心不全とのこと、63歳。つくづく、人の命は儚いものと思い知る。あの時、1時間余りお話を訊けたことを大切な思い出にしよう。一期一会の言葉とともに。ご冥福をお祈りします。

 川瀬書店のこと(2)――さて、何回目になるか。実は不明
 ご提供いただいた資料を紹介する。
 まず、大狸教授・甲南大学の中島俊郎先生が、昨年オックスフォード留学中に入手された古書。AYLWIN BOWENN 『In New Japan』(H.F.&G.Witherby)から。
 第一次大戦後、日本を訪れたイギリス人の旅行記で、これに「川瀬日進堂」が登場する。AYLWIN氏は「川瀬」で、ラフカディオ・ハーンの本(ドイツのタウニッツ版)を購入している。『知られざる日本の面影』『心』『怪談』『仏陀の国の落穂拾い』など。
 ハーンの美しい文体を賞賛するが、その描写ほど実際は美しいという訳ではないという感想。私の貧しい英語力では大雑把にならざるを得ない。申し訳ない。中島先生によれば、「川瀬」は竹友藻風の『英文学史』を出版している。「われわれ英文学徒にとっては恩人にあたる書店」。
 神戸市立中央図書館の蔵書を見る。
 ・竹友藻風『英文學史:670-1660』(1936.9)神戸:川瀬書店
 ・モリス生誕百年記念協會『モリス記念論集』(1934)川瀬日進堂書店
 後者にも新村出や寿岳文章とともに執筆者に竹友の名がある。

写真1  前にも写真を送ってくださった愛媛県西条市の「佐藤日進堂」さんから新資料が届いている。古いタンスから創業者である祖父・佐藤干城(たてき)氏の神戸生活の写真が見つかった。

←[写真1]1921年(大正10)「川瀬」店頭、
正月祝賀会記念写真。


写真2 写真3
↑[写真2]店頭にて。後の人が干城氏。    ↑[写真3]店の2階。1918年(大正7)。

写真4 写真5
左 [写真4]干城氏帰郷して1921年(大正10)6月「佐藤日進堂」創業。1923(大正12)の店頭風景。
右 [写真5]1935年「少女倶楽部」(講談社)愛読者賞入選の地元女学生とその賞品展示。


 以上、「佐藤日進堂」さんからご提供いただいた写真。

(2009年6月記)



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【第20回】本屋のこと、思い出すままに(20)
   平野義昌(海文堂書店)


 取材がままならず、またもや海文堂ネタで。
 これまでわかっていることを、とりあえず年表にした。これを第1版として、以後追加・訂正していく。また、これまでの記述とちがう個所もある。この年表が現時点で判明していることとする。

海文堂書店のあゆみ 第1版(平野義昌作成 2009.7)
1914年(大正3)

賀集喜一郎(1875〜1940)が神戸市多聞通と楠町に「賀集書店」開業。
一般書籍・雑誌販売と海事図書出版。[註1]
1923年(大正12) 元町通3丁目に移転。
1925年(大正14) 『海事大辞書』全3巻刊行開始するが、失敗。経営不振に。「註2]
1926年(大正15) 「海文堂」に改称。
1930年(昭和5)



組織を合資会社に、賀集代表社員。
岡田一雄入社。書店業のかたわらコーヒー豆の輸入事業で成功。経営を立て直す。[註3]
店舗東半分に飲食店「三好野」開設。
1940年(昭和15) 賀集喜一郎死去。岡田一雄代表社員に就任。
1945年(昭和20) 3月、神戸大空襲で店舗焼失。
1946年(昭和21) 10月、バラックで営業・出版再開。
1948年(昭和23)

6月、「株式会社海文堂」。一雄、代表取締役就任。書店は「(同)小売部」。
1953年(昭和28) 5月、出版部東京出張所を開設。
1958年(昭和33) 6月、出版部独立し、「海文堂出版株式会社」に。
1963年(昭和38)

日東舘書林、南天荘書店、文昌堂(明石)、藻文堂(淡路)と「神戸出版販売株式会社」を設立。
1965年(昭和40)


6月、神戸の出版部を東京本社に吸収、神戸支店になる。
9月、「神戸出版販売株式会社」、三宮地下街に「コーべブックス」を20坪で出店。
1967年(昭和42)


7月、書店部門「株式会社海文堂書店」。岡田代表取締役会長、清水晏禎(やすよし)社長。
「コーべブックス」改装、60坪。
1968年(昭和43) 「三好野」閉鎖。
1973年(昭和48)

5月、岡田一雄死去。出版は長男・岡田吉弘、書店は娘婿・島田誠が引き継ぐ。
1978年(昭和53) 2階に「海文堂ギャラリー」開設、4坪。
1980年(昭和55)

増改築で1階150坪、2階70坪。2階奥に「ギャラリー」24坪。画廊のある本屋として注目される。
1988年(昭和63) 「ギャラリー」リニューアル、30坪。
1992年(平成4)

島田、若い芸術家の活動を支援する「公益信託・亀井純子文化基金」創設。
1995年(平成7)



1月17日阪神淡路大震災。元町通は比較的損害軽微。1月25日営業再開。
島田、震災後の芸術文化による復興支援活動と芸術家を支援する「アート・エイド・神戸」立ち上げる。
1996年(平成8) 島田、「企業メセナ大賞奨励賞」受賞。
2000年(平成12)

島田退任、岡田吉弘が社長兼任。島田は独立して「ギャラリー島田」を設立。「基金」と「アート・エイド」の拠点も「ギャラリー島田」に移る。
2002年(平成14) 「コーべブックス」「南天荘書店」廃業。
2003年(平成15)

8月編集プロダクション「シースペース」の協力を得て月刊PR紙「海会(カイエ)」創刊。3000枚発行。
2005年(平成17)


5月、旧ギャラリースペース再開。初イベント「創作紙芝居」。
10月、初の古本フェア「ちんき堂見参」1階で開催。
11月、第22回「書皮大賞」受賞。
2006年(平成18)




1月、古本「ちんき堂棚」常設。
11月23日、合同古本イベント「海文堂の三箱古本市」開催。
12月、「海会」連載『本屋の眼』みずのわ出版より単行本出版。
編集プロダクション「シースペース」と共にPR誌「ほんまに」創刊号発売。500部発行。
2008年(平成20)

4月、初の古本市「海文堂の古本市」15日間開催。8店舗参加。
11月、愛媛県上島町観光PR、レモン・みかん等特産物3日間店頭販売。
2009年(平成21)

6月1日、創業95周年。
6月24日、岡田一雄の長女で、島田誠夫人・悦子死去。

[註]
(1) 賀集喜一郎について、その人となり、出版・書店業開業の経緯など、現在不詳。創業の地、「多聞通」「楠町」どちらのにも店舗もしくは事務所があった模様。また、出版社名として「賀集書店文楽堂」を使用している。研究者によると確認できる最古の出版物は、1916年(大正5)発行、石岡正己編『摘用産婆学』。海文堂に残る最古の本は『海事大辞書』。神戸市立中央図書館には1922年(大正11)発行の、上田篤次郎著『舶用製氷冷蔵機』が所蔵されている。
(2) この時、倒産したという説もある。1925年(大正14)の神戸新聞正月広告では「賀集書店海文堂」で出ている。また、神戸市立中央図書館所蔵の1923年(大正12)発行の本、『新選英文公開日誌其他書方(そのたかきかた)』は既に「賀集海文堂書店」となっている。
(3) 岡田一雄、この時20歳。貿易業で成功していた。出版・書店経営についての興味等は不詳だが、漢詩・英詩を好み、音楽と映画を愛する「モダンボーイ」だった。

(2009年7月記)



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【第21回】三宮ブックス開店のころ
   平野義昌(海文堂書店)


 いつものことだが取材がなかなかできない。村田耕平氏(以下、敬称略)のインタビューの前に、少し私の記憶をさらっておく。
 1981年(昭和56)3月、私は「コーべブックス」を退社して、友人の実家の商売を手伝う。神戸で一番の化粧品店で、友人の兄が経営者だった。友人本人は経営にはタッチしていなかった。結局、役に立てなくて、1年9ヵ月で去ることになる。経営者家族・友人家族はじめ同僚たち、多くの人に迷惑をかけた。
 化粧品屋時代、「コーべブックス」の人たちは普通につきあってくれた。厚かましくも、さんちか店も高槻店もしょっちゅう出入りしていた。本人は「円満退社」と思っているのだ。出版営業のE氏は、時々化粧品店を覘いてくれた。これは、うれしくありがたいことだった。
 この時代に結婚したのだが、披露宴には「コーべブックス」の人たちが出席してくれた。本屋の定休日に日を合わせた。よって、私と妻の「ハレの日」82年11月11日は、平日で仏滅であった。他の出席者には、これも迷惑をかけた。
 結婚の時には、翌年年始のバーゲン終了後に化粧品屋を辞めること、「三宮ブックス」に行くことが決まっていた。
「三宮ブックス」である。82年(昭和57)4月村田が独立して創業。国鉄三ノ宮駅高架の西端にあった靴屋さんの一部を借りての開店だ。さんちか店で、「村田さん独立」と聞いて、初めて知った。約40坪。「コーべブックス」OGの高田さんが手伝い、学生アルバイト3名、明石の老舗書店の後継ぎが修業に来ていた。
 私、いきなり飛びついたわけではない。それなりに考えた。それでも、結婚が近づいているのに、化粧品店で頑張ろうという気持ちもないフラフラした男が、かつての上司に相談、いや、お願い、否、押しかけたというのがほんとうのところだ。村田は、真摯に話を聴いてくれた。自分の伝手で仕事を紹介することも可能と言ってくれた。私は「本屋に戻りたい」と言うのみだった。
 個人経営で、人を雇う=生活の面倒を見るということは並大抵ではない。給料の他、社会保険の負担もある。こちらはそんなことまで考えが及ばない。第一「三宮ブックス」の経営状態もわからない。改めて、そのことを尋ねた。
「経営の感覚が今とちがう。学生アルバイトやない。働いてもらうなら、社員が当たり前」
 私は助けてもらった。
 後に高田さんから聞いた話では、「コーべブックス」の人から、一緒にやりたいと申し入れが複数あったそうだ。「なんで、自分ではなく平野なのか?」とその人たちは考えただろう。私は「うまいことやった」人間なのであろう。私より長く濃い関係のあった人たちには、申し訳ないことをした、と当時も今も思っている。

 インタビューに移る。
 繰り返しになる。78年(昭和53)「コーべブックス」は経営不振で取次会社・日販への支払いが悪化した。出版部門は閉鎖。日販から高槻店閉店の強い要求が出される。この急場をしのぐ力は役員各社になかった。情熱を持っていたのは北風一雄のみ。それも自社「南天荘書店」で資金を作った。これで役員間の力関係が変わった。北風長男氏が新たに役員入りする。村田も役員として責任を感じ、退く決意を固めた。長男氏の社長就任は80年だったと記憶する。村田は新経営陣への引継ぎを終えて82年退職する。
 最後の日3月31日夜、さんちか店の戸締りをしたことを今も鮮明に覚えていると語る。 「ドアの上と下の鍵をかけた時の音と感覚な。それとな、金庫の番号、いまだに覚えてんねん」
29歳から46歳まで、「佳き人生の期間やった」と語る。
 休む間もなく、4月3日「三宮ブックス」開店。中央区琴ノ緒町5丁目1-295は、国鉄の線路の浜側高架下。靴屋さんY氏がここの権利を持っていた。
 なぜ、この場所だったのか? キーパーソンというべきSさんがいた。理髪店経営者で、村田が通っていた。SさんとY氏が報徳学園の同窓で仲良しだった。村田もSさんを通じてY氏とは面識があった。Y氏は当然家賃の他、敷金数千万を要求したが、村田は正直に「そんなお金ない」と言うと、「そんなら、しゃあないな」という話だ。
 余談、Sさんの夫人は宝塚の往年のスター。確か音羽信子さんと同期と聞いている。
 店舗は靴屋さんとベニヤ板一枚で仕切られていた。スタートは順調だったが、客層は「コーべブックス」とは、だいぶ違う。現在はバスターミナルができ、「ミント」ができて繁華になっているが、当時は、郡部への神姫バスの乗降客と、中央区役所への通り道の人、新聞会館の人たちが歩いている地域だった。それでも、村田の永年鍛えた本屋商売の嗅覚で、着実に業績を上げた。メインは雑誌とコミックだったが、少しずつ書籍の割合が増えていったと思っている。日販の担当者が「驚異的な伸び」と感嘆したほど。とはいえ、大手出版社の本が並ぶわけではない。弱小書店には世間のベストセラーなど入荷しない。注文など無視状態。今の海文堂の同僚でも解ってもらえないと思う。注文して、入れてくれる本を売るしかない。営業に来てくれる出版社がありがたかった。大手で注文に応えてくれたのは唯一「文藝春秋」だったと、あえて申し上げる。客注を受けて電話しても入荷しないというより、重版未定としか言われないのだから。皆さんに信じてもらえるだろうか。今の「G舎」の対応だ。
 冗談みたいに、私がずっと「フランス書院文庫」をいっぱい売ったと言っているけれど、確かに客層が合ったのも事実、それよりも置いている本屋が少なかったから、注文すれば入荷した、ということ。ほかにも、毎月きちんと訪問してくれる出版社の本はきちんと売った。
「コーべブックス」の人たちは、いろいろと便宜を図ってくれた。本を融通してくれたし、イベントにも助力してくれた。村田の威光だろう。
 スタッフは、当初のメンバーから代わる。高田さんが子育てで引退し、竹林さん(コーべブックスOG、現在も勤務)、その後、出口君(他業種から)が加わった。
 それなりに繁盛して、家賃もきちんと払っていた。Y氏がパチンコ店を別の場所で始めて成功。三宮でもと、まず靴屋のゾーンを改装して開店した。何せベニヤ一枚だから、音楽はもとより、チンジャラチンジャラ喧しい。大騒音だ。それでも本屋は賑わった。
 ちょい、脱線。もともと、いわゆる「ヤ○○」とその周辺の人たちが多い地域だが、パチンコ店開業時には、黒いスーツの幹部と思しき方がなにやら交渉に来ていた。そのついでに、というか時間待ちで本屋にも入ってきて、「小林秀雄」の本を買ってくれたのに驚いた。幹部氏が村田に問う。
「本屋ゆうのは儲かるんか?」
「儲かりません、儲けようとは思うてません」
「ほんなら、何でやってんねん?」
「本、好きですねん」
「そうかー」
 というようなやりとりだったはずだ、と記憶。
 パチンコ店は予想通り大盛況。本屋ゾーンにも拡張したい、Y氏の所有する別の場所に移転せよ、となる。開店5年目87年(昭和62)のことだ。第一候補が、国鉄元町駅そば。これは「海文堂」との関係上、無理。第一、名称を変えなければならない。次がすぐ近くの三ノ宮駅山側の高架下、スペースも広い。約70坪。駄々を捏ねることもせず、おとなしく移転した。
 ゼロからのスタートである。線路の北と南では通っている人が全く違うのだった。近隣のお店の人たちは歓迎してくれたが、売り上げは当然落ちる。前の店とそう離れていないのに、この違いは何なのか、すぐに理解できなかった。そして、悟った。「小さな本屋で、人の流れは変わらない」。影響力なんてない。ただ、そこに本屋があった、というだけの本屋でしかなかったと。この頃の私の手書きビラ「本のビラ」は悲痛だった。「100メートルは遠い」と毎回書いた。村田は前向きだった。「もう悔やみ事は書くな」と私を諌めてくれた。苦しいのは、経営者だ。ある出版社の人が、「1年辛抱です。1年」と言ってくれた。客層に合った本を開拓して少しずつ盛り返していった。

(2009年8月記)



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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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