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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第22回 第23回 第24回


【第22回】「三宮ブックス」の思い出(1)
   平野義昌(海文堂書店)


 常連客のこと
 印象深い人がおふたり。
 JR三ノ宮駅高架浜側時代からの顧客、芦屋のMさん、当時60代後半の男性。週2〜3回来店。何が気に入ったのか、「三宮ブックス」で長い時間しゃべって帰る。もちろん注文をくれる。必ず来るからと、住所も電話も教えてくれない。怪しい。職業は「経営コンサルタント」、写真はプロで風景写真が専門、コンピュータ草創期の中心人物のひとり、と自称する。「ほんまかいな?」だが、ほんとうらしい。有名な企業を何社か口にする。
 「転職するなら、面倒見てやるゾ」とよく言われた。やはり「ほんまかいな?」だ。
 注文してくれる本は風景写真集と理系の教養書だが、自分で買う本を友人・知人に薦めるので、同じ本を数冊ずつ注文する。だが、帯付・美本でないといけない。1冊ずつ印刷状態も点検する。カバージャケットの傷や汚れも許さない。納得する本が来るまで待ってはくれるが、こちらはウンザリすることもあった。
 ギャンブル好きでオカルト好き、それに酒好き、心臓に持病があるのに。その病気のため、若き日アメリカ留学を断念したと聞いた。「ほんまかいな?」
 ギャンブルは主に競艇、独自の必勝理論でよく勝つらしい。
 コンピュータ専門家のオカルト好きというのは理解し難かったが、故障個所を見つけるのにイチから点検するけれども、どうしようもなくなった時にダウジングを使う、と言うのだ。「ほんまかいな?」
 休憩時に喫茶店にご一緒した。仕事のアドバイスのほか、私の健康を心配してくれた。当時鼻炎で、よく目と鼻がグジャグジャになっていた。栄養剤と目薬を教えてくれ、それが効いたのかどうかは不明だが、いつのまにか治まって今日にいたっている。
 知人の再就職を頼んだことがある。自分がフラフラしているのに。
 「オレの条件は高いゾ」と、コンピュータ業務の心構えとか技量について質問状を書いてくれた。知人には渡したが、「条件」は合わなかった。大きなお世話を焼いてしまった。
 さて、Mさん、お体を悪くしてしばらく来店されなかった。震災後に来られた時は、歩くのもしんどそうだった。こちらから連絡する術がない。
 ふたりめは東灘区のUさん。出会った頃は60代後半。三ノ宮駅山側高架に移ってから、Mさんと入れ替るように来店されるようになった。ほぼ毎日JRで三ノ宮駅まで来て、運動がてら元町・神戸駅やら北野界隈を散歩する、その行き帰りに立ち寄る。散歩コースになじみの立ち寄り先がいくつもあるようだ。一人暮らしで悠々自適という感じだが、建築・不動産会社の顧問をしている様子。いつも大きなカメラを携帯して、お買いになるのもカメラ関係と仕事関連。散歩の途中、他の本屋で見かけた本をわざわざ注文してくれる。
 土建屋のおっちゃんと思っていたら、幼少の頃からヴァイオリンを習っていたというお坊ちゃま育ち。お爺様が旧住吉村の村長というお家柄。ベレー帽やハンチングが似合うお洒落な人だ。
 父親の建築会社を継いだとたん、伊勢湾台風で大損害を受けた、夫人が早くに病死し、3人の子どもを男手で育てあげた、そんな話をしてくれる。意外な苦労人であった。
 「お茶行こう、トレイン(隣の喫茶店)行こう」と毎日誘ってくれるのだが、私も一応時間に縛られた勤め人なので、休憩時間か勤務終了後でないと付き合えない。それでも誘う。いつの間にか、私の休憩時間・退出時間を覚えていた。
 「まっすぐ帰るのもええけど、ワンクッション置かなあかん。職場のストレスを家に持ち込まんようにコーヒー飲むなり、赤ちょうちん行くなり、それから帰らなあかん」
 当時は「そうかあ?」と思ったけれど、今は一理あると得心する。でも、一杯が二杯・三杯……いっぱい、になって、沈没してしまうのだけれど。
 Uさんは、ウチの美人妻のファンであった。というのも、人手がない時、妻がレジを手伝っていたことがある。妻までお茶に誘いよる。世話好きで、店に差し入れをしてくれるし、わが子どもたちにもプレゼントをくださる。わが家では「Uのおっちゃん」だった。
 私が海文堂に移ってからも散歩の途中に立ち寄ってくれて、例のごとく「お茶行こう」だ。お歳がお歳、この2年ほどお会いしていない。
 忘れてはいけない人がいた。開店時からほとんど毎日顔を出す近所のYさんは元海軍。早口で時事問題や取引先の話をして、「どない思う?」と問うので答えようとすると本人は既に次の話題をしゃべっている、という人。こっちの話など聞く気はない。それでも電話で声色をして注文するという茶目っ気のある人だ。京都の商家の生まれで伝統芸能・文化に詳しい。
 80歳を越えて毎日ランニングを欠かさないZさん(本名失念)は、市バスと競争する元気爺さん。肌のツヤが違う。山側高架に移ってからの顧客。岩波ファンで「岩波新書を読む会」のメンバー。
 おふたりで月1回来店されるW嬢とS嬢は仲良し姉妹。東灘区と北区からお見えで、三宮で会って昼食と買い物をお楽しみなのでしょう。いつも丁寧なご挨拶に恐縮したもの。季節のお便りもくださった。
 長く商売をしていると、出会う方は当然多くなるし、商売を越えたお付き合いも生まれる。ある日を境に来店されなくなる方もいらっしゃる。お身体の具合か、こちらに何か失礼があったのか、定かではない。ご本人は来なくなっても、奥様は来られる。おふたりの読書傾向の違いは存じているので、奥様が自分の本しか買っていないことはわかる。詮索することはしない。ご本人とは海文堂で再会した。しばらく通ってくださったし、旅先からよく絵はがきもあったが、いつの間にやら途絶えた。私が嫌われたのだろうか。不明だが、情況としては、そう考えざるを得ない。

(2009年9月記)



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【第23回】「三宮ブックス」の思い出(2)
   平野義昌(海文堂書店)


 JR三ノ宮駅山側高架移転後、お客さんの層が変わった。山側から電車に乗降する人たちや阪急電車・市営地下鉄を利用する人たちだ。駅の山側、特に東には大きな会社や施設はなかったが、大学予備校をはじめ学習塾、専門学校が多くあった。団塊ジュニアといわれる世代の子たちが一大勢力だった。昼休みの時間や夕方はこの子たちで満員になる。
 相変わらず雑誌・コミックが主力だが、大学受験用参考書の売り上げが伸びてきた。各予備校で教材があるにもかかわらずだ。学参といえば、村田は「昔取った篠塚」じゃない「杵柄」だったが、時代は移っている。かつての学参出版社の本より、予備校系列の新興出版社が売れ筋だった。
 大手出版社は、コミックについてはほぼ十分な配本だった。日販の神戸支店からも補充をしてもらえた。後に事務所機能だけになって、それもなくなってしまうが。
 コンピュータ雑誌が多数発刊してきたので、それだけの大きな平台を設けた。ゲーム雑誌(特にH系)の売り上げもバカにできないものだった。少年漫画雑誌は立ち読みできないようレジ前に置いた。H雑誌やアイドルもの、グラビア系はすべてビニールパックした。マニアはきれいな本でないと買わない。ビニールは回収して何度も使う。
 雑誌の入荷データは毎日台帳に記入して管理、定期改正・返品に役立てたし、別冊・増刊も特集がわかるようにした。ムックも細かく記録した。すべて竹林が担当してくれた。取次販売会社のネット検索なんぞ導入できないから、お客さんの問い合わせに少しでも応えられるよう工夫してくれた。
 一般書では、大手出版社の本はほとんどない。前回書いたように「文藝春秋」は注文すれば入荷した。あとは中堅どころの「青春出版社」「ベストセラーズ」「情報センター出版局」「JICC出版局」「日本文芸社」「三笠書房」など定期的に訪問してくれる出版社や、営業代行「プロローグ」の契約出版社だ。
 文庫でも大手の配本や追加はわずかなものだから、融通してくれる「徳間書店」「双葉社」「祥伝社」それに「三笠」とその別会社「フランス書院」が主力になる。大手の新刊は期待できないので、既刊本を売るしかない。吉川英治・司馬遼太郎・池波正太郎・藤沢周平・宮部みゆきの主な作品はずっと平積みだった。
 人文教養書も少しずつ増やした。地元本もなるべく入れたし、どういうわけか著者が直接持ち込んで来られることが多くなった。駅の近くだから他店のついでに、ということもあったかもしれない。
 10円コピー機が繁盛した。当初、本屋でコピー機など置いたら商品をコピーされるのでは? と危惧したが、ほとんどなかった。不届き者はごく少数である。学生からお年寄りまで幅広く、近隣の会社・事務所の利用も多かった。コピー機会社の人は「失敗しても10円だから利用者に操作してもらえ」と言うが、利用者は10円でも無駄にしたくない。自信のない人は、してくれと要求する。忙しい時でも、それはしてあげなければならない。
 売り上げが持ち直したのは移転して2年目頃。営業時間がしだいに長くなる。当初9時開店で、荷物をあけながら営業していたが、入荷の時間がどんどん早くなり、開店が8時になった。物流の進歩もあるが、コンビニが増えたため、その配送の影響もあるだろう。村田の出社も7時になり、すぐ開店していた。私たち従業員は8時。出社・登校の電車に乗る前に立ち寄る人がかなりいた。閉店時間も20時から21時になり、22時になった。村田は毎日最初から最後までいたが、私たち従業員は18時までで、週3〜4日21時まで勤務した。残業手当はきちんとついたので、給料はそこそこあった。今では考えられない金額だ。それでも本屋の給料だから一般会社とは比較にならぬ。
 移転して困ったのが空調と雨漏り。家主が設置してくれた空調機はオンボロ、送風機でしかなかった。冷房は午前中しか機能しないし、暖房はできなかった。お客さんは驚いたことだろうが、きっと「貧乏な本屋」とわかってくれたと勝手に想像している。働いている私たち、夏は各自着替えとタオルを用意したものだ。冬は厚着してレジの足元に電気ストーブだ。顔なじみの人がよく温かい缶コーヒーを買ってくれた。酔っ払いのおじさんが熱い「ワンカップ」をくれた時は、「こんなんもろても……」と言いながら喜んだ。もちろん閉店してからいただいた。
 雨漏りは主に店の北半分で、阪急電車の高架に当たる部分。南半分がJRで、阪急の方は天井が低い構造だった。ちょっとした雨で壁からジワジワと漏れてきて、あちこち雨漏り除けの板やらビニールやらを設置。さらに、大雨になると店の北側の道路が冠水して店内に浸水してくる。土嚢をいつでも出せるようにしていた。今は笑い話だが、当時はちょっと情けなかった。そんな店でも、お客さんは来てくれていたのだから、有り難いことだ。

 さて、村田インタビュー、今回は書店組合活動の初期のことを訊いた。
 三宮ブックス開業と同時に組合には加入しているが、会合に出ることはなかった。1985年(昭和60)当時の柏秀樹副理事長(宝文館)から声が掛かり理事になった。組合では若手だから、精力的・献身的に働いた(私が部下としてそう思った)。当時のことで思い出すのは、ちょうどバブルの初期で組合でも雑談の話題は「財テク」のこと。多くの人が「儲かってしゃあない」と。それに何か会合があると「ゴルフ」。どちらも経営者だけではなく従業員の幹部クラスも熱中していたよう。本屋の「経営指標」は小売業で最低なのに踊ったのだから、日本中が踊り狂っていた時代だったと言える。
 閑話休題、89年(平成1)の役員改正で村田は第一支部長(神戸市の責任者)。93年(平成5)安井克典(山崎町・安井書店)が理事長に就任、その2期目95年(平成7)に副理事長となった(言わずとも「阪神・淡路大震災」の年のことだ。震災後の活動は次回に)。で、97年(平成9)理事長になる。震災復興と大不況の時期である。歴代の理事長はじめ幹部は皆、村田が学参問屋時代から知る人たちで、彼らの強い要請に応えた。
 書店組合の歴史は、老舗の学校教科書販売店の歴史だ。明治の学校教育整備に伴い教科書の需要が急増、地方にも本屋が増えていった。出版元や教育・文化に理解ある名士であった。現在も多くの組合事務所が各県の教科書販売会社に事務局を置いている。組合所有の事務所は全国でも10あるかどうか。近県では大阪組合と京都組合は独自の不動産を持ち、専従の職員を複数雇用している。残念ながら兵庫県は「資産ゼロ」で職員なし。今も「兵庫県書店商業組合」の事務局は「三宮ブックス」内にあり、村田が未だに事務局長=事務員なのだ。
 その「教科書」書店主体の組合のトップに兵庫県で初めて「非教科書」書店の村田がなった。不満は一部であった。しかし、立候補する者はいない。
 一書店員の私は、当然組合の活動に何の役目も果たしていないが、前述のとおり村田の働きぶりには感心する、というより「ちょっとは店のことも」と思っていたほど。理事である間は月1回神戸での会合くらいだが、要職に就くにつれて、自店の長時間営業との掛け持ちは激務だったはずだ。他の人も同じだ。理事長・副理事長は毎月東京での会議に出張する。神戸・大阪でも会議がある。さらに取次販売会社や出版社の会、自治体商工部の会議、新規出店の話し合いやら何やら。安井氏もそのたび山崎町から出席されていた(地理的感覚がないのだが、姫路からバスで1時間以上かかるはずだ)。交通費などの経費は出ても、報酬は一切ない。役得があると部外者は想像するのだろうが、あると思うならやってみてごらん、という話だ。「ある」のなら、70歳をとうに越えた村田が実務をやっていなくていいはずだ。
 「三宮ブックス」は現在外商業務だけだが、村田は毎朝午前6時には出社して組合の事務仕事をこなしている。「だんだん早なってなあ」と笑う。

(2009年10月記、文中敬称略)



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【第24回】震災直後の「三宮ブックス」
   平野義昌(海文堂書店)


↓三宮ブックスの前
三宮ブックスの前  またあの日がやってくる。
 1995年(平成7)1月17日阪神・淡路大震災発生、というより勃発。
 震災での書店被害状況については次回の予定。三宮ブックスの状態のみ書く。17日夜になってようやく村田と私が連絡を取れた。私が最後だったと記憶する。我が家付近の電話の復旧が遅かったのか、私が混乱していて連絡を怠ったのか。たぶん後
者だったろう。東灘区の竹林の家は全壊で近所のお寺に避難。出口は加古川市で被害はなかったものの、当分出社不能。18日に村田が店の様子を見に行き対応を決めることになった。
 19日から2人が出社して、とにかく片付けることにする(写真1 写真2)。私は自転車で向かう。途中の景色が一変しているのを見て涙がにじむ。
 店はシャッターが曲がっていたものの、外見上無事だった。道路を挟んだ真北の近畿銀行は全壊して、その瓦礫が道路を塞いでいる(写真3)
 店内は、電気と電話はつながっていたが、水は出ない。本という本が床一面にぶちまけられていた。「散乱」ではない。とにかく大きな力が「本をぶちまけた」としか言えない。1冊ずつ拾うしかない。棚がずれたり、移動していたが、「崩壊」はしていない。本さえ棚に収まれば開店できる。
[↓左 写真1、右 写真2 震災後の店内]
震災後の三宮ブックスの店内1 震災後の三宮ブックスの店内2
 作業のかたわら、村田は組合役員や取次販売会社と連絡を取り合い、各書店の被害状況を調査していた。安井理事長から電話で、日本書店商業組合(以下、日書連)の会合に出て、全国の仲間に被害状況を報告せよ、と。毎年1月の会合は箱根で開催されるのだが、ちょうどその日が迫っていた。村田はバスで阪神甲子園駅まで行き(3時間かかった)、阪神電車に乗り換えて、大阪で日販の担当者から書店被害状況の資料を受け取り、新幹線に。この時、大阪は普通の都市生活で、「武庫川を境に、こちらは地獄、あっちは天国いう感じやったな」。被災者も、被害を受けなかった人も、仕事に出られる人は、何時間もかけて通勤し、「地獄と天国」を往復していた。その期間は長かった。
 安井も山崎町から岡山空港経由で向かった。この会で、日書連の義援金供出1000万円が即決した。村田が記憶することばがある。福島県の人が話しかけてくれた。「村田さん、ずすんはこわかー」。「地震」は「じしん」より、確かに「ずすん」だった。
 村田は出発前に、早目の給料を出してくれた。「こういう時は現金がいちばん必要やから」。ちょうど連休の後で、売り上げが銀行に入金できず、店にあった。村田が留守の間、ひとり黙黙と本を拾い続ける、相手がいないのだから仕方がない、拾うことしかすることがない。時々、ご近所さんや知り合いが見舞いがてら覗いてくれ、とりあえずの無事を喜びあった。
 取次販売会社の支援活動は迅速だった。地震の翌週には各書店に支援隊を派遣してくれた。三宮ブックスにも日販から約20名の方が三田回りで来てくださった。村田と2人だけの作業から、復旧が大きく進んだ。曲がり、歪んだシャッターも直してくれた。作業終了後、責任者が冗談まじりに「シャッター部門設立の時には、ぜひ君たちに担当してもらおう」と仰ったのを皆で笑った。この支援活動の感激(シャッターだけではない)は、いただいた手作りのお弁当とともに忘れられない。普段は悪口や嫌味ばかり言っているのに……。本がなくなった床はあちこちひび割れていた。
全壊した近畿銀行  営業再開は、近畿銀行の瓦礫撤去作業の道路部分が終わってからだった。海文堂がいち早く1月25日再開で、「うちももう少しで」と半分悔しく思ったことを覚えている(三宮ブックス再開は1月28日)。
 村田は被害調査を続ける一方、業界の皆さんに支援のお願いをしなければならない。東京、大阪の会議に何度も出る。東京の出版経営者も集まった席でのこと。どれくらいの義援金を出そうかという時である。まさに未曾有の災害被害だから、誰もがどうしていいのかわからない、基準とか決まりがない。無言の思案の中、ある人が立ち上がって、「私は1000万円出す」と一声。      →[写真3]全壊した近畿銀行
 良い話なので実名を書く。三笠書房の押鐘社長(当時)
だ。この時この声で、「基準」ができた。大手出版社が続いて金額を提示してくれた。
 後でこの話を村田から聞き、「ええとこあるやん、押鐘はん」と、私、誠に失礼ながら、口に出した。もちろん感謝の気持ちからだ。この社長は年1回全国縦断して書店をまわる。主なところだけでもたいへんだろうに、弱小「三宮ブックス」も訪問してくれる。村田と話し込むと長い。スケジュールを管理する営業担当さんのご苦労は想像できる。訪問のたびに「書店さんのために」ということばを仰っていた。社長の「有言実行」に改めてお礼を申し上げます。
 閑話休題。震災義援金は、出版社、取次販売会社、書店合わせて、1億3381万円集まったそうだ。全国の皆さんにお礼を申し上げます。その配分について、大阪組合に本部を置き会議が何度もある。大阪に本社・支社のある出版社、取次販売会社3社、近畿各府県の組合理事長らに村田も参加して計20名で協議した。「迅速性・透明性・公平性」を基本原則にするが、「毎回議論の多さと激しさ、そして、感情論も交錯した」と村田は述懐する。まず、「本屋同士やけど、組合員と、組合に入ってない本屋にどう配分するかいうとこやな」
 それから、組合書店にどう配分するか? 既に営業をしている店、再建中の店、閉鎖した店の差をどうつけるのか? 被害額の算定基準は? 物損と人的被害をどうするのか?
 出版社、販売会社からの義援金は、その性格から被災全書店均等にするということで、3月中頃、兵庫県と大阪府の合計447店に見舞金5万円が渡された。
 村田の手元に残る資料を見せてもらう。第2次配分について、3月28日付「義援金配分案」から引く。
 「被害程度の判定は非常に難しい。細部まで亙る事は無理なので、大分けすることにした。(空前の大きな魚を戴いたと仮定すると、手の込んだ料理は無理なので、ぶつ切り状態の沖料理で供する外無かった)」
 「基本理念 義援金の趣旨は、書店業継続支援と解釈したので、次の基準の下、対象者については、切り捨てはせず拾い上げる姿勢で臨む。但し組合員に限る」
 その「基準」。「店舗物損に限る。Aランク 被害額千万単位、開業まで半年 240万円。Bランク 被害額百万単位 50万円。他、Cランク5万円、Dランク3万円」とある。
 県下の被害の判定は、取次販売会社と地域の組合役員の協力で、村田と安井が行った。動ける人間は2人だけだった。確認・視察に行けるところは役員に行ってもらったし、2人も出向いた。
 「はっきり言うて、判定は困難や。それでも、相手の立場・言い分を尊重せなあかん」
 ちょっと脱線する。会議に出向く時の、今となっては笑い話(その1)。
 ある日の会議、大阪で午後1時から。安井は午前7時山崎発の高速バスに乗る。時間に到着しない。村田は何度も家族に連絡を取る。会議が終わっても、夜になっても安井からの連絡はない。家族が警察に捜索願を出す。深夜にようやく、安井本人から電話。高速道路も大渋滞で、ずっとバスに缶詰状態。バスは途中で運行をあきらめ、山崎に戻ることになるが、反対車線も同様に大渋滞。結局丸一日バスに乗っていた。携帯電話がない時代だ。
 村田も、バスが王子公園前から動かず、自宅まで2時間かけて歩いたことがあった。足の骨が痛んでいた時で、長時間歩けるか不安だったらしい。
 「不思議なもんでな、歩けたし、それから足の痛みもなくなった」
 戻る。書店被害調査・判定を村田が一覧表にした。いよいよ義援金配分である。当時のさくら銀行栄町支店で一日かかって各書店別に小切手を作成した。
 今となっては笑い話(その2)。
 「その日、ほんまに飲まず食わずでな。帰り道、ワシ死んでしまう思うてたら、ウナギの匂いしてな。鰻丼食うて、帰ってん」(平野註―海文堂近くの「青葉」)
 また戻る。結果、Aランク35店+支店7店、Bランク22店+支店3店、C21店、D13店。全壊全焼した1店に100万円が加算された。
 義援金をそれぞれの書店に渡す。ある経営者から「被災は軽微なので、お返しする。重大な被災店に廻して」との申し出があった。その逆に、調査の段階で、古い損傷を今回の地震の被害と主張する人もいた。
 また、近畿の各組合から、被災はそれぞれあるが兵庫に比べ軽微であると、辞退の申し出があったことも加えておく。
 改めて村田作成の配分一覧表を見る。これに「三宮ブックス」の名はない。
 当時、村田が「ウチはもらわん」と言った時、私は「なんで?」と正直思った。
 「ワシが責任と権限を持って被災書店の判定をやっているのに、自分の店を判定して、もらうわけにはいかん」
 今回、私はもう一度訊ねた。
 「そうやったかいな? もう忘れた」
  と、とぼけられた。

写真提供=村田耕平

(2009年11月記、文中敬称略)



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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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