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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第25回第26回 第27回


【第25回】無駄なものこそ
   平野義昌(海文堂書店)


 『阪神大震災と出版』(日沖桜皮編、日本エディタースクール出版部、1995年10月)は、出版・取次・書店・古書店・図書館・輸送・メディアまで含めた関係者の報告と証言をまとめた本。改めて見てみると、あの1月17日は、米子の「本の学校」の開校式がある予定だった。ある書店は有馬温泉に社員旅行で宿泊中だった。
 そして3日後には、神戸の書店組合で重要な会議が開かれるはずだった。
 京都の「駸々堂」三宮出店について、駸々堂・取次販売会社も出席しての会議が予定されていた。「駸々堂」については改めて。そういう事があったことだけ記憶に留めていただけたらと思う。
 書店の被害状況、先の本に業界新聞「新文化」(1995年1月26日号)の緊急速報が掲載されている。「全壊」「倒壊」「店舗内崩壊」「商品散乱」「ビル機能マヒ」の文字が並ぶ。「スプリンクラー作動・店内水浸し」とか「立ち入り禁止」「連絡不通」の店もある。2月2日号になると、「営業再開」「近日中復旧」の店がある一方、「復旧見込みなし」「再開未定」も多くある。
 編者による。ある大手出版社が引き取った損傷商品(返品)の額から推定すると、書店店頭在庫品の損害額だけでも約13億円。建物・什器・売り上げなどは算出できないが、甚大な額である。その返品処理について、出版各社の対応は迅速だった。従来、天災による汚損商品は3掛返品入帖が慣例だったが、「今回の被害額はあまりに甚大であり、書店復興の大きな障害となるとの認識で各社が一致し、異例の通常入帖、そして現物なしの見込み入帖までが実施された」。この対応は、「ひとくちに『書店の被害は出版社の被害・書店の復興は出版物の生命回復』であるとの共通理解によるもの」で、「版元、取次、書店という業界の三者共存共栄関係をあらためて認識させられた」。
 前回、義援金や支援部隊のことを書いたが、「返品」という名の救済があったことも加えておかねばならない。当然の措置と考えられるかもしれないが、出版社も決して楽ではない経営だった。
 近隣書店の状況。中央区では、1月25日に「海文堂」、1月28日に「三宮ブックス」、1月31日には「コーべブックスさんこうべ店」、2月3日に「ジュンク堂サンパル店」が再開している。西部と東部がなんとかなったわけだ。中心部のさんちか・センター街は壊滅状態だった。ビルが崩れ、アーケードは落下していた。そんななか「漢口堂」が1月30日から店舗前にワゴンを出して雑誌・地図を販売している。
 『ぴあ関西版』(4月25日号)に「復興地応援レポート 100人インタビュー」の記事がある。『ぴあ』に縁のある場所・娯楽施設・店舗の人や芸能人に話を訊いている。書店も3月22日頃に再開できている9店舗が登場。「海文堂」「ジュンク堂三宮店」「漢口堂」の方々他、「三宮ブックス」(私)も出してもらっている。何をしゃべっているか紹介する。
「シャッターはゆがみ、店内は本の大洪水・1冊1冊頬ずりするように拾った。1月28日に再開。常連さんや出版社の人たちと再会できて嬉しい。読書できる喜び、本を手渡せる幸福を実感しています」
 この頃は真面目だった。顔写真も現在よりふくよかで、健康そうだ。
 営業再開して、需要が多いのはやはり地図だった。昭文社の営業担当さんが直接納品に来てくれた。話をしていると、買ったばかりのお宅が全壊。「家ないのに借金残りました」と、さらりと仰る。誰もが明るくふるまおうとしていた。
 行き交う人たちは皆リュック担いで帽子にマスクという震災ルック。知人を訪ねる人、役所に来る人、買出しの人……、瓦礫の街を歩いた。多くの人が、負けられへんというか、生きようと活動していた。活気があった。
 村田が後に回想している。「夏頃になって、囲碁や将棋の本が売れるようになった。余裕を取り戻してきたということ」。
 被害の状況を伝える「写真集」が次々出て、売れるのだが、複雑な気持ちだった。記録として残さなければならないが、当時個人的にはそれらを見る気になれなかった。
 まだ鉄道が復旧していない春先に、「地方・小」の川上さんが来神。阪急六甲で「南天荘」の元さんや「コーべブックス」の松本さん、神戸・大阪の6、7名が集まった。皆、不便な移動だった。しばらくして、元さんが計画して出版・書店関係者が六甲の教会に集まり懇親会をした。このとき交通機関はほぼ復旧していた。残念ながら正確な日を記憶していない。
 我が家のこと。1月16日(月)は祝日の振替休日だった。私は休みをもらって家族で妻の実家(高槻)に行き、夕方帰って来た。神戸駅の地下街で惣菜を買って夕飯にした。皆で2階で寝ていた。早朝、大きな震動、すぐに地震とはわからなかった。長い揺れの最中、爆弾でも炸裂したのかと考えていた。揺れが治まり、外に出なければと玄関の戸を開けようとするが、開かない。ベランダから出るには台所を通らねばならないが、そのドアは戸棚が移動していて、十分に開かない。何とか開けると食器がすべて割れて散乱。皆靴をはいてベランダから隣家との境のブロックを渡って脱出した。このとき家の東面のベランダと窓の鍵レバーがはずれて開いていた。すぐ南にある弁護士会館が避難所として開放してくれ、避難した。家族は、私の両親・妹共怪我もなく無事だった。村田と連絡がついたのは夜。家の中を片付け19日から出社した。
 22日に妻の実家から従兄弟ふたりが三田経由で来てくれ、妻子を一緒に連れて帰ってもらった。涙の別れだった。
 27日の夕方、翌日休みで実家に向かう。臨時バスで阪神青木駅まで、阪神電車・JRを乗り継いで4時間近くかかった。JRの車内で私の姿は異様だった。風呂に長いこと入っていないし、頭ボサボサ、ヒゲボウボウの震災ルックで、ひとり異国人のように感じた。上の娘は小学校に臨時編入させてもらい、下の息子は親戚中で歓迎されて泊まりに行っていた。風呂に入り、久しぶりの団欒であった。娘は「神戸に帰りたい」と言う。「もうちょっと待って」と繰り返す。
 翌週の金曜の夜、実家に行く。水道が復旧したので、翌日午前中家族で家に戻った。三田経由、地下鉄新神戸からの徒歩は軽やかだった。友人たちが「飲料水ある?」とか、「お風呂に来て」とか連絡をくださる。ありがたいことだった。
 また雑誌を紹介する。『ダ・ヴィンチ』1996年2月号(当時リクルート)の「レオナルド調査隊、あれから1年、がんばれKOBE! 神戸復興のシンボルは書店だった!?」。復興過程の神戸で本がどう読まれ、被災した書店はどうなったかをレポートしている。文章担当は、今や著名になった北尾トロさん。
 「そのとき、本は何ができたか?」というアンケート。「多くの人にとって本は無力であり、いまだに当時の無力感を人々はひきずっている」傾向。しかし、書店が営業を再開したときの喜びも多数寄せられている。
 「一方で、本の無力さや読書熱の低下を記しながら、もう一方で書店のありがたみを感じていた」
 この矛盾した回答中に、北尾さんは「書店という存在の意味」を感じとる。
 「本を媒介にして、人が集まり、賑わう場所。立ち読みできたりヒマがつぶせたり待ち合わせをしたりする貴重なサロン」と。
 同記事で書店を訪問している。長田の「秋田百文館」は全壊・全焼。10ヵ月かかって2坪で再開(後日廃業)。「海文堂」(島田前社長)、「三宮ブックス」(村田)にインタビュー、西宮の「ヒシヤ書店」の仮店舗での営業(こちらも廃業)も伝えている。
 北尾さんはレポートをこうまとめる。
 「非常時には本などなんの役にも立たないのに、営業を再開した書店が歓迎されたのはなぜか。それは本や書店が役に立たない面を持つからだ。なくてもいい無駄なものにこそ、人々をひきつける力があった。(中略)書店は雑多な人間が時と場所を共にする『欠かせないものじゃないけれど、なかったらたまらなく寂しい場所』なのだ。(中略)神戸が復興する日、それは、巨大なビルが完成する日ではない。これら役立たずの場所が、ごく日常的にオープンし、ごくあたりまえに利用される日なんだとぼくは思う」
 記事中、村田がコメントしている。組合の調査で、震災後3ヵ月の時点で再開できていない店が54店。その年の暮れでも10数店が再開できずにいた。

(2009年12月記)



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【第26回】「駸々堂」神戸出店と倒産をめぐって
   平野義昌(海文堂書店)


 まずお詫びと訂正をいたします。前回の記述で、たいへん大きな勘違いをそのまま書いています。1月17日の箇所です。
……そして、神戸の書店組合では重要な会議が開かれるはずだった。
 京都の「駸々堂」三宮出店について、駸々堂・取次販売会社も出席しての会議が予定されていた。「駸々堂」については改めて。そういう事があったことだけ記憶に留めていただけたらと思う。……
 この会議は、3日後、20日の予定でした。私の記憶違いですが、確認もせず、そのまま書いてしまいました。結果、劇的な表現になってしまいました。お詫びして訂正いたします。申し訳ありません。
 ……そして3日後には、神戸の書店組合で重要な会議が開かれるはずだった。
(該当箇所、このように訂正いたしました。みずのわ出版編集部)


 無駄なものこそ、続編
 神戸新聞の「特別縮刷版 阪神大震災報道記録 1995.1.17〜2.17」を見る。この期間で書店が登場するのは2回だけ。

 1月26日付
 地震関連すぐ完売 海文堂書店再オープン 神戸・元町
 神戸市中央区・元町商店街の海文堂書店は二十五日、通常の営業時間を短縮して阪神大震災後、再オープンした。
 店舗が少ない被害で済んだため「被災者の心が本を読むことで少しでも和めば」と、十九日から開店準備を進めていた。開業したのはギャラリーを除く一、二階の書籍売り場のみ。オープンの告知はしていなかったが、開店前には約十人の客が入り口付近に詰め掛けた。
 地震特集の週刊誌が飛ぶように売れ、店内の山が約二時間で完売した。市外から救援などで訪れた人は神戸市や兵庫県の地図を、受験前の学生は参考書を買い求める姿が目立った。当分の間、午前十一時から午後五時までを営業時間。小林良宣店長は「交通渋滞で仕入れに時間がかかるが、希望する本の注文があれば努力したい」と話している。

 2月3日付
「被災の街で」 神戸、阪神間の書店 心いやす文庫本や漫画 ルート復旧で活気再び  震災による交通網のマヒから、一時期、配送が止まっていた本の流通が再開、神戸、阪神間などのコンビニエンスストアや書店がにぎわいを取り戻している。市内地図や震災に関するグラビア雑誌がよく売れ、また学校が再開されない小・中学生や、不自由な避難所暮らしの人たちが漫画、文庫本を買う姿が見られた。
 店を開けている神戸市中央区元町通の海文堂書店は、商店街を行き交う人が立ち寄り、店内は終日混雑している。小林良宣店長(四四)によると「震災関連の雑誌意外にも、雑誌や漫画のまとめ買いが目立つ」。女性誌を五冊買った兵庫区内のOL(二三)は「自宅が半壊し避難中。テレビで生活情報を得る意外にすることがないので、ファッション雑誌などを買った。とにかく軽い内容のものが読みたくって…」と話した。
 また、休校中の子供のためドリルや絵本を探す姿も。灘区の会社員(三三)は、仕事の合間に立ち寄った。「小学二年と幼稚園の子供が暇を持て余しているようなので」とぬり絵などを選んでいた。
 救援物資の備蓄基地になっている兵庫県消防学校にも、避難所に物資を運ぶボランティアから「文庫本や漫画がほしい」という注文が入り、一月二八日以降、有志が届けた漫画などがトラック便に乗せられた。
 大手流通卸、日本出版販売大阪支店によると、兵庫県配送エリアで二百十店舗以上の書店が被害を受けたが、現在はその七割近くが復旧。配送ルートもほぼ復活し、雑誌や漫画などふだんより余分に届けている店舗もあるという。(写真 海文堂雑誌コーナー)


 前回紹介した北尾トロさんの記事のように、被災者にとって本屋に緊急・重要性はない。それでもないと困る、それくらいの存在でいい。日常生活でも同様だ。


 「駸々堂」神戸出店と倒産をめぐって
 さて、「駸々堂」問題。村田に訊く。
 震災の前年1994年(平成6)12月1日(村田ははっきり覚えている。記憶力は私より確か、である)、三宮ブックスを日販関西支社長と駸々堂専務が訪れ、「駸々堂」の神戸出店を告げる。場所は三宮センタープラザ3階、ファッション店「三愛」があった1000坪。ジュンク堂三宮店の、センター街メインストリートを挟んで北西のビル内だ。村田に説明するのは、もっぱら駸々堂専務で、日販支社長は無言だった。村田は彼の「無言」に大きな圧力=日販の決意を感じ取ったと述懐する。三宮ブックスも小さいながら日販取引店だし、有力店「コーべブックス」もすぐ近くだ。支社長と村田は昵懇で、言いにくいこともあったかもしれないが、大手販売会社の百戦錬磨の重役なのだ。大書店「駸々堂」の意思をまず前面に出したのだろうか。
 自由競争とはいえ、1000坪の大店舗となれば地元書店との話し合いが当然必要。村田は役員と協議、翌年1月20日午後2時から神戸商工会議所で、駸々堂・日販と地元との話し合いの場を持つことになった。
 大地震でその会議は中止。そのまま「駸々堂出店」の話は立ち消えていた。三宮界隈も大打撃を受けていたし、皆それどころではなかった。
 しかし、4月になり、「駸々堂」が再度出店希望を申し出た。三宮センター街は徐々に復旧し、センタープラザも修復し構造上も問題なしということだった。
 村田は震災救援要請だけではなく、この出店問題でも何度も上京した。日書連はじめ全国規模の小売業・商店街の会合にも出席して、被災地の状況を説明した。通産大臣や自民党商工族議員にも面会した。営業不能の店舗が数多くあるのに、1000坪の出店は認めることができないと。ある時通産省の担当課長が発言した。「規制緩和の時代」「(既存店の希望を)私が認めたとしても、米国が許さない」
 村田は反論した。「アメリカがどうのという大きな話とちがう、近所の本屋の話や」  組合や近隣の本屋が反対しても出店を止めることなどできない。何とか規模を縮小するよう交渉するだけだ。結局、通路や事務所を広くして、実面積900坪となった。「駸々堂」が、このスペースを「1000坪」とか「西日本最大」とか宣伝しようと、それは自由にと。
 「駸々堂」1000坪三宮出店は大きな話題になった。店舗は元のファッション店の構造のまま、多くの区画に区切られ、分野別にコーナー作りをしていた。何区画あったか知らないが、区画ごとにシャッターが別で、手動、毎朝毎晩の開閉に時間と労力がかかったらしい。
 地元出版社の営業担当者から聞いた話。出店に際し常備本を選定したいので来いと電話。冊数は13冊(それくらいだったと記憶)であると。担当氏は怒る。「神戸に店出すのに、ウチの本がその数とは。置いてもらわなくて結構、神戸の書店さんがウチの本売ってくれまっさかい、お宅は京都の本並べときなはれ」
 センター街の書店、「流泉書房」は再開できず、「漢口堂」はワゴン販売のみ、「ジュンク堂」と、さんちか「コーべブックス」は3月再開するも大きな被害だった。適切な表現ではないが、重傷でリハビリ中の日本人力士に、重量級外国人レスラーがデスマッチを求めてきたようなものだ。売り場面積や実績からいって、「ジュンク堂」とのガチンコ勝負になる。
 「ジュンク堂」にとっては創業以来初の危機だったはず。当時の三宮店店長が回想している。
 「崩れ落ちたアーケードを見たときには、『自分も会社も終わりだ』と思いました」(神戸新聞 2010年1月8日付)
 在庫40万冊の3分の1が水ぬれになったという。そこからの再開だ。社長が社員ひとりひとりに会社の状況を手紙で説明したと聞く。それでも、95年大分、鹿児島、96年難波、97年池袋、仙台、99年大阪堂島と順調に出店していった。
 大は大同士対決すればいいが、結局「流泉」「漢口堂」「日東舘」は撤退。「コーべブックス」は規模が小さい。「三宮ブックス」となると問題外で独自の戦い。
 「駸々堂」出店について、村田は多くの取材を受けた。その都度既存店の窮状と「1000坪」の落差を訴えた。特にY新聞の記者が熱心で、村田は長時間を割いた。ところが、発表された記事の論点は替わっていた。「三宮センター街書店戦争」と。村田は記者に強く抗議した。
 「あの取材は何やったんや?」
 記者曰く。自分が書いた記事は編集局ですべてカットされたと。
 マスコミの話題づくりに利用されただけであった。
 「駸々堂」には内部に問題があった。前年に帳合をトーハンから日販に変えていた。順調なら変更などしない。村田は、永年の経験で「帳合変更で栄えた店はない」という意見だ。また、「駸々堂」には労働組合が7組合あった。特に第7組合が強硬に三宮出店に反対していた。書店組合に雇用での法律違反の証拠を見せたり、出店反対のビラまきをした。「ジュンク堂」の店内まで入ってきた。9月10日オープン当日も店舗前で反対行動を行った。
 その「駸々堂」が勝手に転ぶ意外な結末。2000年1月自己破産申請。ずっと債務超過で、前年には発祥の地・心斎橋店を売却している。
 結果、「ジュンク堂」のひとり勝ちとなる。
 ネットで「駸々堂倒産」を検索すると、ある掲示板が出る。当時の幹部に対する悪口雑言が並ぶ。元の従業員たちの書き込みだろうが、事の真偽はわからない。ただ、某幹部が倒産後大書店に迎えられるも、不祥事でクビになったことは事実だ。

(2010年1月記)



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【第27回】震災後の三宮ブックス
   平野義昌(海文堂書店)


 なじみの営業Tさんが小説を紹介してくれた。はらだみずき著『赤いカンナではじまる』(祥伝社)。著者はTさんの友人で、元は出版社営業マンだとか。この本、帯に「書店員」の文字があり、「ラブストーリー」とも。昨年10月発売時にめくってはみたが、「恋愛」は無理と敬遠した。著者を女性と思っていた。Tさんによると、表題作品に神戸の本屋が登場して、これが「三宮ブックス」ではないかと。あの店が恋愛小説に出てくるなど「ありえない」と思いながら読んでみた。
 語り手は書店員でヒロインの上司だが、著者の分身の営業マン・作本が物語進行に重要な役目を果す。ふたりは女子社員が本を棚に詰めながら泣いている姿を見てしまう。文芸書の担当者だった。担当替えを言い渡されていた。彼女は間もなく上司に退職を告げ、実家のある大阪に戻る。担当替えが理由なのだが、なぜ彼女が文芸書にこだわるかが、この話の核心。「切なくみずみずしいラブストーリー」なのだが、それは省略する。
 作本は出張で関西の書店まわり。難波の書店で、三宮にいい本屋があると紹介され足を伸ばす。
「センター街の主要な店を回り、いつもは営業しない阪急電車の高架下にある小さな老舗の書店に入った。その店は震災後かなり長い間、休業していたらしい。店には児童書のコーナーは無く、作本の主要営業品目である絵本の棚もなかった。客層とスペースの関係で、雑誌のほかは、文芸書を含めた一般書と文庫が中心の六十坪ほどの店だった」
 作本は文芸書の棚に見覚えがあると感じる。彼女の存在を確信して、店主らしき50歳前後の男性に挨拶する。文芸書担当に会いたいと。
「文芸書の担当もなにも、出版社の営業なんて、めったに来ない小さい店やから」と言う。営業マンが苦手らしく、さっさと奥へ引っ込んでしまう。レジの女性が担当者の名と、今日は休みで明日は出勤と教えてくれる。翌日彼女と再会、東京の書店を辞めた理由と彼女の恋物語を知る。帰京後、元の上司に教える。
 さて、この三宮の本屋だが、「三宮ブックス」と言えないこともない。が、断言もできないというか、ちょっと無理。大阪で名が知られるほどの店ではないし、震災後は早く再開できた。何より、店主らしき人物は、無愛想でも恥ずかしがりでもない。真逆で、営業マンが来ようものなら、捕まえて離さない。
 なぜ著者は三宮の本屋を選んだのか? 恋の行方より気になる。
 著者の本屋へのこだわりが伺える描写がある。
「担当をころころ替えたらエキスパートは育たない」
「彼女がいなくなれば、この棚は確実に死ぬ」
「一本の棚にも小説に起承転結があるように、文体や展開がある。そんな棚を作れるのが本物の書店員なのだ」
 お客さんから、以前いた文芸書担当の女性は、と問い合わせ。辞めたことを告げると、お客は、「そうでしょうね。わたしは久しぶりに店に来たけど、棚がまったく変わっていたからね」と言って、去る。
 村田がよく言っていた。「本屋は農業といっしょで、コツコツ棚を作っていくんや」  それは、こちらの主張を押し付けるだけではない(勿論それも一法)、地域の客層を考えながらだ。売れる本と売りたい本のバランス。「売りたい」には当然当たり外れがあるが、それがなければ「個性」ではない。で、「三宮ブックス」の“それ”は何やったか?
 「スケベ本」に決まっとる。

 震災後の「三宮ブックス」
 子どもの幼稚園で一緒のおかあさんに、元宝塚の女優さんがいた。OGたちがボランティアで避難所などで音楽ショーをしていた。海文堂にもデモテープを持って行って、会場を探してもらった。
 「三宮ブックス」では、有線の音楽をやめ、そのテープをかけたり、ラジオ放送を流すようになった。もっぱら毎日放送だった。特に朝のハマムラさんや、バンバさんの番組は面白かったですな。その後ずっとラジオ。さすがに競馬中継は流さなかったが、春夏の高校野球はつけていた。
 営業再開して間もなくのこと。閉店間際に女性の方が雑誌を買ってくださった。
「三宮ブックスさんは再開できていいですね」
 ちょっと険のある言い方。こちらに失礼があったのかと思ったら、名乗られた。よく知る書店員の奥様だった。そちらのお店はまだ復旧の最中だった。
 震災後、人々は活発に動いた。再開できている店が少ないこともあり、売り上げはそれほど落ちなかった。95年の売り上げは悪くはなかった。昔のことを言うと鬼が大笑いするかもしれない。94年は創業以来の売り上げを記録した。年末に皆で食事をした時に、あまり大きなことを言わない村田が「来年が楽しみ」と誇ったほどだ。87年の店舗移転から次第に盛り返して、年々忙しくなった。村田は組合や業界での仕事も増える。私も書店員や出版社の集まりに参加することが多くなった。それでもこの頃は、さすがにしんどくて欠席してばかりだった。順調な商売で、地震のことなど頭に浮かぶはずもなかった。
 商売がおかしくなるのは97年4月、消費税率5%になったことが最大の原因だろう。「センター街書店戦争」激化の影響もあったかもしれない。
 売り上げ減少で、当然返品が増える。元々雑誌の比率が高かったが、返品率の低い優良店だった。返品用の箱に困る。以前は入荷と返品のバランスがうまい具合だった。たまに箱が不足しても日販はいくらでも古い箱をくれた。この頃には新品を買わなければならなくなった。実質的には返品の有料化だ。困った。私は2軒隣のタバコ屋さんに大きなケースをもらいに行く。こちらは神戸でも有数の販売店で、毎回ケースを全部捨てていた。仕入れ日に毎回もらった。ケースは大きすぎるので半分に切るのだが、これが日販のそれと違って頑丈で、小さなカッターナイフではひと仕事だ。2003年春の店舗閉鎖までお世話になった。
 売り上げ確保のため、村田は長時間営業にする。朝は7時に開け、夜は10時まで。私たち従業員は8時に出勤し、夜は交代で誰かが9時まではいた。
 村田の考えは、業界はコンビニに雑誌の売り上げをとられているが、あっちはあっちでそれだけの努力をしている。本屋はどうしたらいいか? 巨大店か、専門店化か、コンビニ化しかない、うちは巨大化も専門店化もできない、ほんならコンビニ化しかないやろ。
 用のない限り、村田は店頭に立った。

 「事件」続々
 世の中はいろいろな事件がそれぞれの人間や地域の事情に関係なく起きる。
 「阪神淡路大震災」は同年の東京「地下鉄サリン事件」で霞んでしまった、と感じた。不条理な無差別殺人に震撼した。出版社の人から「あの電車に乗っていてもおかしくなかった」とか「あの線で通っている」とか、後で聞いたものだ。
 神戸では97年、少年による連続児童殺傷事件「酒鬼薔薇事件」。少年逮捕直後、写真週刊誌が少年の実名と顔写真を掲載して、多くの本屋は売らずに「回収」した。「三宮ブックス」も店頭に出さなかった。今ならどうするだろう。「被疑者」の段階でどんどん写真が出ている。実名もすぐに出る。
 この事件では被害者家族の手記も発表され話題になった。
 当時、幼なじみが事件現場の学校のPTA会長で、苦労したようだ。妻の友人は、同じ地域で少年と同姓、迷惑電話に悩まされた。
 さらに神戸市民には大きな問題があった。「神戸空港」開港だ。既に90年に決まっていたことだが、市の「復興」と市民の「生活再建」には大きな差があった。市民の多くは「なんで今空港?」と。反対運動が盛り上がった。98年住民投票条例制定の署名は30万人以上集まったが、翌年の市議会選挙では、反対派は少数、市議会は条例案を否決した。周知のとおり、2006年2月空港は開港した。
 この「空港問題」の頃に、「みずのわ出版」柳原一コを知った。97年末に「みずのわ」を立ち上げ、兵庫区の平野で仕事をしていた。村田が「ごっついのが来たぞー」と。私が会ったのはしばらくしてからだったと記憶する。初対面の人は必ず驚くはずだ。長身・長髪はいいとして、きれいに伸ばしているわけではないヒゲ面。足元はスリッパ(ゾウリ)だ。Gパンは許そう、しかし腰に手ぬぐい(日本手ぬぐい)をぶらさげている。今も変わらん。100人いたら100人がムサ苦しいと感じる風体。おまけにどこの地方かわからぬ言語を早口にしゃべくる。聴き取れん。なにが不思議・不可解かといって、当時可愛らしい女性がくっついていた。こちらはどこに出しても恥ずかしくない美女で、関東のおしゃれな言葉である(彼女を見なくなって久しい。事情は推察できる)。この男がますます理解できない存在となった。何の本だったか忘れたが、直仕入で期間を決めての販売だった。彼との付き合いが深まるのは海文堂に移ってからのこと。
 その他思い出すまま書く。

 「万引き」
 捕まえたらだいたい近所の中学校の生徒。ひとり捕まえるとしばらくはない。勿論こちらがわからないだけかもしれない。村田は説教して帰らせる。あとから謝りに来る親もいるが少数。捕まえたら抵抗した男子がいた。常連の子で、同級生数人と一緒だった。連れの子たちは共犯ではなく、その子の単独犯行。コミック3冊を服に隠した。大柄な子で、私は、負けるかもと思いながら相撲のようにがっぷりと組んだ。必死に押し返してくるのを堪えていた。村田の「エエカゲンニセイ」一喝で彼はへたり込んだ。この時初めて警察を呼んだ。友人たちは心配して、長い間店にいたが、おまわりさんに「彼はここには帰ってこない」と言われて帰宅した。これはカワイイ話かもしれない。
 いわゆる「新古書店」ができると、人気コミックを全巻揃いで何回も盗っていく。見つけられなかった。仕方なく棚を移動して、入り口レジの近くにコミックが来た。

 「闖(珍)入者」
 高架南側に店があった頃、犬が入ってきて店内をウロウロして鳴く。ノラではなさそう、毛並みもきれい。オス。お客さんが寄ってきて相手をする。どこにも行こうとしない。どうする? 犬が迷うか? 新聞社の女性がおやつを持ってきて、世話をしてくれる。私も犬と目が合ってしまったら、もういけない。犬好きの父に電話して連れ帰ってもらった。私の父母が言うには、「捨てられたんやろ、自動車から放り出されたんや」
 先の女性が仕事帰りにまた来る。あの犬を飼いたいと。次の日手渡す。犬は彼女の家で大事にされ、天寿を全うした。
 仕事の合間に迷い犬の面倒を見ていられる。20数年前のこと。のんびりしたエエ時代でしたなあ。
 毎年夏の終わり頃からよくトンボが入って来て、脱出できなくなる。なんとか出してやろうとするが捕まらない。何度か死骸を見つけた。天井に止まった時に紙袋を広げてかぶせたら成功。何匹も逃がしてやりましたなあ。「トンボの恩返し」はあるかなあ。「海文堂」にも、たまに入ってくる。慣れたもので、外に出してやる。「恩返し」待ってるでー。
 鳩が来ましたな。本の上に糞を落とされたらカナンと思い、どうしよう? あまり元気のある鳩ではなかった。棚の上に止まったので、脚立に登って手を伸ばしたら2.3度突かれたがおとなしく捕まった。「鳩の恩返し」もあるかなあ?
 外国の人もよく来ました。ある時デップリとした銀髪の男性、入ってくるなり「ポカモン、ポカモン」。しゃべる言葉が理解できない。側にいたお客さんが「ロシア人ちゃうか」と。私はロシア語もできん。彼、ちょうどレジ近くにあった雑誌の絵を指差し「ポカモン」と。「ポケモン」だった。国の子どもにおみやげだろう。その男性、また手振り身振りで自転車の店を探していることを伝えている。近所の奥さんが心当たりの店を、これも手振り身振りで教える。足踏みしながら方向を示し「ウォーキング、テンミニッツ」。わかったようだった。なんとかなるもんである。

(2010年2月記)



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 *画像をクリックすると、本の詳細へジャンプします。 「本屋の眼」

平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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