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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第28回第29回 第30回


【第28回】震災後の三宮ブックス(2)
   平野義昌(海文堂書店)


 3月は忙しい。特に教科書販売は心身共にくたびれる。おまけに今回『ほんまに』が重なった。「みずのわ」原稿を書いている暇はない! というより、すっかり忘れていた。一コ社主はちゃんと覚えていた。督促のメールが来た。彼は多忙だが、把握しておる。

 震災後である。
「三宮ブックス」のスタッフは、村田、竹林純子、出口友紀と私。震災前からパートさん、バイト君はいなかった。長く続いた人たちが辞めて、4人でしのいでいた。
 竹林は、経理業務と実用書に文庫の一部、それに顧客管理やら雑誌台帳など。
 出口は、外商と雑誌、コミックなど。
 私は書籍全般と歩いて回れる範囲の配達。
 一日の業務は、朝の荷物搬入作業から。配送の運転手さんと荷物を数えながら店内に運び込む。運転手さんが言うには、搬入作業を手伝ってくれるのは珍しいと。「コーべブックス」当時は配達時間が遅かったから、みんなで荷物を降ろして運んだ。「三宮ブックス」でも同じことをしていたのだが。現在、「海文堂」では朝の荷物は運転手さん任せだ。もっとも、誰も出勤していない時間だから仕方ない。「三宮ブックス」では、村田が7時に店を開け、出口と私は荷物に間に合うよう8時に出勤していた。
 出口とふたりで雑誌を開梱し並べる。同時に定期購読・配達分を取る。付録組みやコミックの袋詰めとレジは竹林と村田に任せる。出し終えたら、配達の準備。竹林が作ってくれている納品伝票に従って仕分けしていく。午前と午後に分けて出口が車で回る。私も配達に出て、戻ってから書籍にかかる。村田は銀行やら雑務。この間、竹林は、雑誌台帳をつけたり、翌日の伝票を作成しながらレジ。昼食交代、棚詰め、返品と時間は流れる、作業は進む。業績が順調な時は忙しくても身も心もスムーズに動く。
 震災直後は賑わったが、落ち着いてくると、やはり客足が落ちてきた。多くのビルが損傷し、会社・事務所がなくなったり、移転した。銀行もなくなる。特に、神戸新聞の「新聞会館」が崩壊したのは大きい。新聞社だけでなく、多くの会社が入居していたし、映画館、医院、金融機関、電力会社に文化教室と、勤めていた人だけではなく、それぞれの取引先など、さまざまな人たちが集まるビルだった。銀行も同様で、月に1度、週に1度用事に来る人がいなくなる。ついでに立ち寄ってくれた人が来なくなる。人の動きが極端に減った。
 不景気はジワジワと押し寄せる。外商先も雑誌を減らすとか、特典のある直接購読に切り替えだす。売り上げは落ちる一方。これはどこの本屋も同じだったと思う。
 妻が保管している私の給与明細書を見る。毎月の給与はしばらく変動してない。賞与(こういうのをもらえていた)は震災の95年で計4.9月分、96年4.4月、97年3.8月、98年3.15月、99年2.7月支給してくれている。2000年1月の給与から手当名目の支給が減り、01年12月から基本給がダウンしている。それでも精一杯の給料を出してくれていた。
 私はというと、99年の春に肝臓疾患で倒れる。当初風邪と思っていて、なかなか回復せず、検査したら肝臓だった。主治医から入院を勧められるが、店を空けるわけにはいかない。何とか通院で治療をお願いし、毎日通った。約4ヶ月、夏の時期ビールを呑めないのがつらいか想像していたが、そうでもなかった。何せ肝臓が悪いのだから、体がアルコールを求めていなかった。食事は7〜8分で終わってしまう。「呑んでもいい」のお墨付きをもらって嬉しいものの、数日はうまくなかった。それでも呑み始めると元に戻るのは時間の問題、酒飲みの性。
 給与明細書を見ていると、妻が96年11月から2000年12月まで月に数回短時間勤務している。彼女が本格的に働きに出るのは、長男が中学生になってからのこと。近所の食堂。私の収入の減少によることは明らか。その後、現在の神戸大学医学部生協食堂。
「三宮ブックス」で将来のある最年少の出口に、新興の複合型書店に転職してもらうのは02年だったと記憶する。残った年寄り3人のところに、元「コーべブックス」の津村さんにパートタイムで入ってもらう。出口が担当していた外商には村田が出ることになる。
 私は長年続けていた手書き通信「本のびら」を休刊した。別に金がかかっていたものではないけれど、先行きの不安というか、書いている意味を見出せなくなっていた。不況だけなら辛抱できる心の余裕はまだあったと思うが、何やら家主に不穏な動きが出てきていた。

 よそ様のことを書くのは気が引ける。
「コーべブックス」、さんこうべ店とさんちか店は再開できたが、「南天荘」の店舗が大打撃だった。震災から2年後リストラが始まる。あるベテラン社員が村田に相談に来た。村田のアドバイスは「いちど辞めたいと思うたんなら、辞め」。結局その人が最初に手を挙げた。この時6〜7名が退職し、その後も主だった人たちが去って行く。業界に残った人は少数だ。
 98年「さんちか」リニューアルで、初日は大混雑した。村田は挨拶に行ったが、店内に入れず、社長と話をするのに30分は待ったと述懐する。お祝いを言うと、「やっと思いが叶いました」と感慨深く語ったとのこと。全盛時の賑わいが復活した。
 敵情視察の「駸々堂」幹部は、あまりの人に驚くばかり。
 村田も「コーべブックスが甦った」と感じた。「半分ヤッカミもあったな」と正直に語る。
 しかし、震災のダメージは重い。
「海文堂」では、2000年末に社長と店長が退任する。
 2002年春、突然「コーべブックス」廃業。日販が取引停止を決定したことによるのだが、いまだ、その理由は明らかにされていない。通常は業績不振による支払い不能だろうが、そうとも言われてはいない。村田のもとには日販からすぐに報告がきた。この時知ったのだが、「コーべブックス」と「三宮ブックス」は日販取引上、互いに保証人になっていた。このあたりは私には踏み込めない事情がある。
 納得できないというか、よく理解できないのは、日販が「コーべブックス」2店舗の後釜に東京の書店を慌しく誘致したこと。あの場所の権利問題とか、「さんちかタウン」との交渉とか、これも不明。後年、その東京の書店は、販売会社を変更する。帳合変更というやつ。日販は大きな売り上げを、結局失ったことになる。

(2010年3月記)



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【第29回】「三宮ブックス」閉店(1)
   平野義昌(海文堂書店)


 いよいよ「三宮ブックス」閉店編。その前に。
「三宮ブックス」は2度発行元になっている。ただ名前だけ、資金も編集も、営業さえも参加していない。
 1冊目が、小林正信著『あれこれと三宮』(1986年5月)、価格失念。三宮町の古い酒屋のご主人が書いた自伝&エッセイ。小林さんは短歌をされ、村田とは「コーべブックス」時代から親しく、高い歌集を買ってくださった。
 本は完全な自費出版なのだが、出すなら村田の名を入れたいということだった。他書店でも売ってもらったが、流通は「兵庫出版サービス」に任せた。同社は当時「地方・小出版流通センター」の本や神戸の小出版社の営業をしていた。書店からの問い合わせがあっても、すべて「兵庫出版サービス」にまわした。エエカゲンな版元である。
 2冊目は、健全な青少年を育てる会編『新たな歩みを 薬物依存からの回復』(1998年6月)。薬物依存者のための民間リハビリ施設「大阪ダルク」が、教職員研修会で講演した記録をまとめたもの。280円の小冊子だ。以前紹介した村田の友人・牧野の青少年保護活動のひとつ。ほとんどが教職員向けに配布され、残りを店頭で販売した。

「三宮ブックス」閉店編(その1)
 今回は私の頼りない記憶のみで書く。まちがいがあれば順次訂正していくという、いつものエエカゲンで。
 高架下での商売の権利を持っているのはY氏。「三宮ブックス」の場所はJRと阪急電鉄両方に跨っている。Y氏は両方とも持っていた。あくまで権利だから、勝手に第三者に貸したり、譲ったりできない。しかし実際には、又貸しやら、莫大な金額での売買がある。「三宮ブックス」は、本屋を経営したいY氏の要請を受けて店を開いているというタテマエ。
 Y氏はたいへんなお金持ち。本業は靴小売業、三宮センター街に複数店舗がある。パチンコ店が2軒。あちこちに不動産も所有。取り巻きというかブレーンらしき人がたくさんいて、お金儲けの話を持ち込むようだ。「三宮ブックス」立ち退きの話もY氏直接ではなく、そういう人からきた。少し前にJR高架下で喫茶店を長く経営していた人が大手チェーン店に権利を譲ったのだが、当然大きな金額が動いたそうで、Y氏にすれば資産は有効に活用したい。本屋の家賃より、そちらに心が動くのは当然だろう。
 約1年、村田はなんとか商売が継続できるよう交渉するが、Y氏の気持ちは変わらなかった。ついに2002年秋のある日、03年3月末日をもっての閉店を決断する。苦渋であったことと思う。これまで私たち従業員の生活を第一に考えてくれていたのだから。また借金もある。経営上どうして運転資金は必要だ。小売屋は売れなくても問屋に支払いをしなければならない。経営するからこそお金がまわるのであって、商売が止まれば返済の術がない。村田は担当していた外商を継続することにする。竹林は残って村田を補佐することになった。書店組合もある。そのための事務所探しと、厄介者の私の先行きを案じなければならない。事務所は店から数分の場所で見つかった。
 当時我が子は高一と中一、妻がパートに出ているものの失業生活はできなかった。村田はあちこち伝手を頼って書店員の口を捜してくれた。チェーン店や大書店にも当たってくれたようだ。老舗はどこも苦しい。村田は「海文堂」の岡田重役にも、雑談でそれとなく求人を訊ねたそうだが、人手は減らす方針という話だった。脳天気な私は「そらそうやな、三宮ブックスがあかんようになって海文堂ゆううまい話はないわなあ」と納得した。村田は日販神戸支店長・鈴木氏にも依頼をしてくれていた。その鈴木ルートが「海文堂」に「三宮ブックス」閉店と私の求職を知らせてくれた。ここから話がトントンと進み面接となる。ネックは私の年齢と給料、「三宮ブックス」は少人数の長時間勤務で残業手当がきちんと出た。手取り額はそこそこあった。今思えば、普通の書店のヒラ社員ではもらえない額だった。贅沢言える立場ではない。2月26日2度目の面接で決定。なぜこの日付を覚えているかというと、翌27日早朝に母が亡くなったから。長く病に伏していたが最期は自宅でという希望で、近所の診療所の医師・看護師さんに看取ってもらった。母の葬儀の日に、子どもたちに閉店と再就職について話した。私のために泣いてくれた。祖母の死やら将来の不安もあろう、でも私のためだったと思わせてください。
「海文堂」の前店長・小林さんが、閉店のことを聞きつけ、心配してわざわざ来店してくれた。この時点で再就職は決まっていたが、まだお知らせすることはしなかった。感謝と申し訳なさで、今も引け目を感じている。
 閉店作業。お客さんには、1月中頃からお伝えする。皆さん残念がってくださったが、湿っぽい話はなかった。ご近所にお住まいの人は新事務所に取りに行くと言ってくださった。返品についてはほとんど問題なく、ややこしい商品も日販担当者の力でなんとかなった。買い切り出版社については、「海文堂」福岡店長の助力で入帖してもらえた。3月26日まで営業し、翌日から撤去作業。返品はトラックが2回に分けて搬出。本棚は、半分ボランティアグループに寄付し、残りは棚製作会社に引き取ってもらった。私は小さい棚を記念にもらった。
 30日作業を終えて店とお別れ。この瞬間のシーンを前から予想していた。涙が出るかもと思っていたものの、その時は不思議に泣くことはなかった。
 4月1日から「海文堂」に出社。休みたくなかったので、しばらくアルバイトにしてもらった。
 3日夜、日販神戸支店の方々と送別会。皆さんの前で、私ひとりが大泣きしていた。思い返せば、ただただ恥ずかしい。


(2010年4月記)



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【第30回】「三宮ブックス」閉店(2)
   平野義昌(海文堂書店)


 私の記憶だけの文を整理すべく、村田社長(以下敬称略)にインタビューした。「閉店」という内容だけに、いつものようには話がうまく進まない。話を訊く私の責任だが、やはり訊きづらい。
 まず「コーべブックス」倒産の件。
 前回書いたように、「コーべブックス」と「三宮ブックス」は日販取引上、互いに保証人になっていた。どちらも日販に対して何かあれば責任を取らなければならない。当時の日販首脳部が処理――「コーべブックス」との取引停止と後釜の書店誘致――を素早く進めたのは、村田に累を及ぼさないためだったのだろうと、想像できる。
 村田は、自分が「コーべブックス」の経営を引き継ぐことも考えたようだ。このことは今回初耳だが、やはり資金がなくてはできないことだった。億単位のお金をすぐに動かせなければならない。「もし……」はないことだが、夢は見てしまう。
 さて、「三宮ブックス」。もともとY氏との契約は、家賃固定制だった。開店当初月20万円だったと記憶する。繁盛するようになると、Y氏から売り上げの歩合制にせよと要求があった。敷金・権利金を払っていないこともあり、村田は従った。家賃は倍以上に上がった。売り上げが上がるほど家賃も上がる。そして5年目で移転。店舗の整備に金がかかったうえに、売り上げは減少する。それでも持ち直してY氏への家賃はまた上がっていった。震災後の売り上げ減少で、今度はY氏への支払いがどんどん減っていく。そこに他の権利者が大金を得たことで、立ち退きの話となった。この時点で具体的に新しい借り手がいたわけではない。「三宮ブックス」が退いて1年以上空き家になっていた。現在は全国チェーンの居酒屋になっている。
 5年目での移転の時、近所の人や出版関係者が「家主から補償金」をもらったはずという、根も葉もない話を尋ねられた。「村田さんがもらっていないはずがない」と言う。まるで「抜け目がない」「ズル賢い」と言われている気分だ。無責任な世間の目というものはこういうものだ。売り上げ激減で苦しんでいることには無関心で、懐具合だけ覗いている。
 閉店に際しても立ち退き料云々と、村田のごく親しい人が言っていると、別の親しい人が私に言ってきた。「そら、村田さんならちゃんともろてるわ」とその人までが言う。「もらっていたら年寄りが商売続けんでもええはずや」と私が答えたが、わかってくれただろうか。この話が昨年の秋のことだ。そういう人たちは長い間村田と付き合っていて、結局書店業界で有名人とか、商売・組合を通じて幅広い人脈があるとか、そんなことしか見ていないということだろう。
 村田に「立ち退き料」について訊くと、「思いもよらん」と一蹴した。
「Y氏とは人間関係はできていた。ガメツイ半面、人間らしい面もあった」
 「立ち退き料」ではないが、閉店に際しての、いわゆる産業廃棄物の処理費用はすべてY氏が持ってくれたそうだ。そのY氏も既に鬼籍に入った。
 村田の話。
 今思えば、早晩閉店しなければならなかっただろう。新しいきれいな店がどんどんできていて、あの古い汚い店ではな。
 立ち退きの時、一旦は全部やめるつもりやったけど、借金があったからな。20年続けて財残らず、借金残るや。
 みんなに生活してもらい、自分にあった商いができていた。もって瞑すべし、やな。

 その借金の多くは我々の生活費になったものだろう。
 村田、現在74歳。今も竹林とふたりで毎日、ポートアイランドのファッションメーカー、警察の拘置所、商店、さらに個人宅まで雑誌の配達に出ている。書店組合活動も相変わらずだ。私は月1回、お茶をごちそうになりながら取材させてもらい、業界情報を教えてもらう。村田も商売途中に「海文堂」に寄る。スタッフひとりひとりに声をかけながら店内を巡る。「迷惑かけていませんか、役に立っていますか」と保護司が挨拶回りしているように思える。私はまだ「保護観察」中のようだ。

(2010年5月記)



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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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