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本屋の眼番外 神戸・本屋漂流記


第4回 第5回 第6回


【第4回】本屋のこと、思い出すままに(4)
   平野義昌(海文堂書店)


 南天荘書店のこと(2)
 海文堂福岡店長が持って来てくれた3月4日付神戸新聞姫路版に、日本基督教団曽根教会(高砂市)の牧師さんの話が掲載されていた。4月から西宮の教会に異動されるそうだが、地方の片隅の牧師の話が記事になるのがちょっと不思議。前日の同紙にも「禁煙支援フォーラム」の記事があり、そこにもその牧師さんが登場している。播州地方では有名人らしい。
 「誰やねん? すごい人なんか? 訳わからん」
 ご存知の人はご存知。震災後書店勤めを辞め、関西学院神学部大学院に入り直し、牧師になった元(はじめ)正章さんのこと。曽根教会に赴任して早や5年。何度か海文堂に来てくださっていたが、山陽電鉄沿線とはいえ、ちと遠い。風の噂で、そろそろこちらに帰って来るらしい、とは聞いてはいたが……。業界関係者及び俗世間の皆さん、彼がまた、いろいろ話題を提供してくれることでしょう。
 私、早速教会にメール。「落ち着いたら取材を」と、お願いした。ついでに一つ質問。北風一雄氏(旧・南天荘書店代表取締役/旧・コーベブックス専務)のルーツについて、「兵庫津の豪商・北風家の縁と聞いたことがあるが……、事実は?」と。
 元さんの回答は「北風家の傍流」。
 感謝。

 北風一雄氏のこと(1)
 北風一雄氏(以下、敬称略)は引退後、自伝を2冊出版されているが、「ルーツ」については書かれていない。1912年(大正1)11月生まれ、父上は神戸製鋼所の工員さん。
「薄給ではあったが、つつましい平和な暮らしだった」。
 脱線して、北風本家の話。北風家は兵庫の名主で、海運で栄えた。家伝では天皇家につながるが、確認できる史料では南北朝時代、南朝に仕えた豪族。戦国の頃、兵庫で海運業を起こし、江戸時代には物流・倉庫・商業・金融・情報を掌握した。「兵庫津の北風か、北風の兵庫津か」と謳われ、『菜の花の沖』の高田屋嘉兵衛は、元はここの番頭さん。
 最後の当主は66代目貞知(のち正造)。京の長谷川家――北面の武士の末裔で、鳥羽天皇御陵を管理――からの養子で、実兄が養子に入っていたが病没し、続いて正造が入った。両家は南北朝以来の縁。母は有栖川宮家の右筆。朝廷との関係が深い。正造も9歳から15歳まで関白九条道孝に仕え、剣は直心影流。兄の死がなければ勤皇の志士だったはず。
 28歳で当主となった正造は天領の豪商だから幕府の信任も厚かったが、勤皇派に財産をつぎ込み(現在の価値で百億円単位)、支援した。明治政府になっても、地元の名士として数々の公職を引き受けた。現在のJR神戸駅はすべて北風家所有地を寄付したものという。しかし、事業は衰退、1895年(明治28)正造は寂しく東京で亡くなり、一族も没落してゆく。
 一雄の家がどの程度の傍流かは定かではない。規模や立場の差はあれ、本家の没落と一雄が手塩にかけた二つの本屋――南天荘とコーベブックス――の消滅を私は重ねてしまう。
 一雄が小学3年の時、父は独立して町工場を経営するが失敗。2年間父と離れて母親の里、広島県の能美島で暮らす。中学受験をあきらめ2年の高等科を住み込みで働きながら卒業。1927年(昭和2)、神戸製鋼所の養成工試験に合格、勤務しながら3年定時制の教育を受けた。元々読書好きで、小学4、5年生頃立川文庫を買ってもらっては、友人たちと交換し読みつくしたという。長じて古本屋を巡り、小遣いの大半を費やした。当時は円本ブーム、後の古本屋開業につながる。
 2度の徴兵後、38年(昭13)4月灘区中央商店街(現在の灘中央筋商店街と思われる)に古書店「中央堂書店」を開く。戦場の体験で一雄の人生観は周囲の人たちと違っていた。職場に復帰しても、上司と衝突し転職を考える。「失望と違和感を持つ自分に驚いた。きっと己の心のおごりだろう」と書いている。父の勧めもあり古本屋を開業。世話をしてくれたのは小学校の同級生亀岡とその友人星野勇。星野は当時古書組合の役員。翌年、一雄は星野の妹と結婚する。同業者の勉強会には必ず出席し、「先輩には辞を低く教えを乞うた」。「古書業界は親切にリードしてくれ、不思議に同業者は親切だった」。午前6時開店午後11時閉店、休みは月1日。繁盛するが、経営の矛盾につきあたる。仕入れは古書市場か店買い、欲しい本・お客の注文品が思う通りは入らぬ。それに盗品を買ってしまった場合の警察での取調べ・後始末。そこで、新刊スペースを設け、改装し、従業員を増やす。商売は順調、家族も増える。しかし、世の中は軍事一色。43年(昭18)1月、3度目の召集、戦場は北満州。

(続く)

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年3月記)


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【第5回】本屋のこと、思い出すままに(5)
   平野義昌(海文堂書店)


 北風一雄氏のこと(2)
 北満州でどうなったか? 前回、思わせぶりな終わり方だったが、無事生還できたから後の人生があったわけで。
 北風一雄(以下、敬称略)は通信兵。翌1944(昭和19)年新潟県高田市(現、上越市)に配属、そこで敗戦。満州なら運良く生存でもシベリア送り、そのうえで運が良くて何年もかかって生還が叶う。戦争という巨大な力の渦中にある、弱い小さな個人個人の運命だ。
 自伝に満州での本に関するエピソードがある。休みの外出で一杯呑み、本屋を覘く。吉川英治の『宮本武蔵(地の巻)』を買い求め、兵舎に戻る。「先に読ませろ」と四方から手が出る。器用な人がいて、1冊を3冊に分け、表紙をつけて、まわし読みしたそうだ。
 当然、2巻、3巻を先に読む人がいた。それでも読みたい。きっと、一雄は先に皆に読ませたろう。私が勝手に想像するだけ。『きけわだつみのこえ』(岩波書店)に、活字好きの兵士が衛生班からメンソレの効能書き(これが活字びっしりだとか)をもらい貪るように読んだ話があった。
 閑話休題。
 神戸に戻ってみれば焼け野原、家族は無事だったが義兄の星野は戦死、多くの友人も亡くなっていた。
 三宮の闇市でコンサイス英和辞典が1冊売りに出されていた。「さすが神戸だ。こんな場所で本が出るのがうれしかった」が、買った男は巻きタバコにすると嘯く。
 「愕然として、その男を見た。コンサイスが巻きタバコの用紙になる。その用途に驚いた。その無神経は何からくるのか。亡び行く文化を目の前に見た。俺は本屋を再開しよう。絶対の使命だ。誓いに似た、そして無性に腹が立つのをどうしようもなく、焼け跡の道を西日を背に、長々と自分の影が地面に引くのを見ながら帰った」
 元の場所にテント張り3坪で再開。親戚・友人から掻き集めた本で「変てこな本屋」ができ、「意外に活発に動きだした」。
 庶民も本に飢えていていた。
 さて、一雄、古書籍組合の役員・理事長を勤めた後、新刊書店に転向することになる。
 兵庫県古書籍商業協同組合の『六十年史』による。1945年(昭和20)10月、長田で市場が再開され、組合仮事務所も設置された。神戸新聞に組合名で古書籍買い入れの広告を出す。書籍蒐集と同時に組合員に活動再開を知らせるためで、市内中東部地区の連絡役として一雄の名前がある。47年(昭和22)6月の改組で理事、49年(昭和24)4月専務理事、同6月理事長就任。翌年専務理事のあと、その次の年には名は既にない。ちなみに、48年(昭和23)8月現在の組合員名簿に「南天荘書店 行永アイ」の名が見える。
 戦後も新刊を積極的に扱う。毎朝国鉄六甲道駅止めで入荷する荷物を大八車で取りに行く。
 「荷崩れに注意して、六甲道の坂を、弟の後押しで、エッチラエッチラと登り、市電道で一息入れて、西へ1キロ、中央筋の入口に来ると家内が待っており、力を合わせて一気に坂を駆け抜けわが店に到着、山積みの荷を店員一同が荷解きする。そのころ周囲の店が起き始める」
 理事長まで務めながら新刊専門に転向しての思いは、「業者間の競争は激しかった。それだけに活気に満ちていた」。
 60年(昭和35)南天荘書店の株を取得し、翌年営業権一切を行永卯三郎氏から継承。第1回に書いた梅田出店は69年(昭和44)、紀伊國屋書店と同じ年にオープンしている。地元の猛反対は南天荘にもあった。68年(昭和43)阪急六甲駅に出店。国鉄六甲道駅南北他出店、営業権取得と88年(昭和63)時点で5店舗(梅田店は1978年閉店)。
 神戸出版販売株式会社(のちコーべブックス)設立が63年(昭和38)で、さんちか店オープンが65年(昭和40)。南天荘を長男氏に任せるのは70年(昭和45)頃だろうから、超多忙であったはず。両社の年表を重ねてみる。

南天荘コーべブックス
1960南天荘書店「株」取得   ――
61同「営業権」継承   ――
63   ――神戸出版販売設立
65   ――さんちか店オープン25坪
67   ――さんちか店改装63坪
交通センタービル文庫専門店
68阪急六甲店   ――
69大阪梅田店   ――
73メイン六甲店西武高槻店開店4日前全焼、伊丹店
74   ――サンこうべ店、西武高槻店、出版部
77梅田店閉鎖   ――
78白鴎ブックス営業権出版部閉鎖
80   ――西武高槻店増床

 まだ続く予定。

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年4月記)


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【第6回】本屋のこと、思い出すままに(6)
   平野義昌(海文堂書店)


 5月18日海文堂2階〈Sea Space〉にて、歴史研究家安井裕二郎さんが、蒐集した貴重な元町の画像をスライドにして公開してくださった。本稿も大いに参考にさせていただいている『識る力――神戸元町通で読む70章』(ジャパンメモリー)の編著者。出版・書店関係では、「船井弘文堂」(明治10年代に出版業、新聞舗)発行の本の表紙、「熊谷久栄堂」の商標、「川瀬日進堂」(元町1丁目にあったが宝塚市仁川に移転)の店内風景、「日東舘」店頭など。いずれも初めて目にするものばかり。海文堂の旧名「賀集書店」時代の図書目録も。これは海文堂にもある。

 北風一雄氏のこと(3)
 北風一雄氏(以下、敬称略)の謡いは玄人はだしで、旧宅には能舞台があったとか。蔵書も立派だったはず。芦屋の谷崎潤一郎記念館に長男氏が谷崎の初版本を寄贈している。能舞台も蔵書も南天荘・コーべブックスと共に消え去ってしまった。思い出す容貌は、気鋭の経営者というより、やはり本屋の親爺さん、と言えば失礼だろうか。『六十年史』に戦後まもなくの写真が掲載されているが、私の覚えている「顔」そのままで写っておられる。
 自伝と年表の記述から、「本屋」に対する一雄のロマンを私は勝手に推測する。戦前会社を辞め古本屋開業、戦後の再開店、新刊を載せた大八車を引いて六甲の坂を登っていた頃、店舗拡大、それに出版への思い入れ。しかし、いいことばかりではない。
 ここまで主に一雄の自伝を基に書いてきた。少部数自費出版の自分史で、登場する関係者は家族を含めても少ない。すべてが「事実」と合っているわけでもない。長い付き合いの村田耕平氏(元コーべブックス常務、現三宮ブックス社長、以下敬称略)に話を聞く。
 村田は取次会社文開堂の社員で、一雄の経営する中央堂書店と取引があった。その村田によると一雄の書店経営には夫人の功績が大きく、当時業界で「女傑」と言われるほどの存在であったという。自伝には夫人と一緒に働いた話や感謝のことばはあるが、そういうエピソードはない。また、苦楽を共にした村田の名も西武高槻店焼失(1973年)の時1度登場するだけ。村田の一雄評は「古いモノを壊して新しいモノをつくるということについて素晴らしい力をもつ人」。南天荘買収に際しては銀行からの資金のほか、業界も相当な支援をしたそうで、「北風一雄の人望」によるものと。
 前回の年表、当初「自伝」の記述どおりに作成したのだが、村田の話からだいぶ違っていることが判明し、入稿後にみずのわ柳原社主に訂正を願った次第。「自伝」には「63年コーべブックス設立」とあるが、正しくは「神戸出版販売設立」だった。ただ名称が違うだけではない。従来、「コーべブックス」は大手有名書店の神戸進出に危機感を持った地元書店有志が共同出資して設立・出店した――とされてきたし、私もそう聞いていた。しかし、話はまったく違う。当時鶴書房という出版社の旅行で同室になった若手経営者が議論するうちに意気投合。それが、海文堂岡田一雄、日東舘石丸悌二郎、南天荘北風一雄に明石と淡路の2書店。皆40代半ば元気一杯の社長たち。資金を積み立て会社を作ったが、具体的に事業をするというより「勉強会」というもの。2年後(1965年)さんちかタウンができるのだが、オープン半年前に、この「会社」の存在を知ったさんちか営業責任者から出店の話がきた。大手書店進出の話があったらしいが、どの書店ということは当時も今も明らかではない。最初は25坪で場所は国際会館寄りのところ。2年後(1967年)の改装時に63坪で、私たちのよく知るあの場所になった(三宮センター街東端、旧住友銀行三宮支店地下)。現在では考えられないが、当時ワンフロア63坪という書店は画期的なことで、全国的に話題になったというから、ひょっとすると、「コーべブックス」が大規模書店の「魁」だったのかもしれない。コーベブックスさんちか店増床のわずか2年後(1969年)には、梅田紀伊國屋が一挙に10倍のスペースで出現することになる。大書店時代の到来だ。
 さて、話のついで。村田はコーべブックスに加わることになるのだが、社員となる前から店作りや棚の設計に参加していた。今の海文堂2階〈Sea Space〉の奥が社長室で、そこで毎晩遅くまで作業して、時には岡田社長が高級ブランディを飲ませてくれたとか。後、村田は正式に入社となるが、妻女は何と文開堂社長の娘(私も長いお付き合いだが、今回初めて知った)。紆余曲折というか、ドラマがあったような気がする。コーべブックス、村田耕平氏についてはいつか。
 自分史の記述は思い込みやら、都合のいい記憶ばかりで当然だろう。一雄が経営面で「神様」と言われる評価のある一方、後継者にとっては大きな「負の遺産」を残したことも他方事実である。一雄は震災後避難した大阪で亡くなる。長男氏との間に深い確執というものがあっただろう。当然両者に言い分があることで、私がここで立ち入るべき問題ではないし、そんな立場でもない。ただ、後継者に重い負担が残り、いろいろあって、結果ふたつの地元書店が消滅したということしか言えない。
 この項はここで一旦終了。

 書店組合の事務局で1枚のコピーをいただいた。「日本出版物小売業組合全国連合会」の1955年(昭和30)の名簿で、関係者が偶然古書店で入手したものだとか。その神戸市部分、組合加入書店33店。そのうち今現在も存在しているのは8店。50年経っての生存率24%は高いのか低いのか? 旧生田区(三宮から神戸駅にかけて)では9店のうち2店のみ。宝文館と海文堂、天然記念物並み。もう「保護」の段階だ。でもね、誰にも頼れん、この世の中は市場原理じゃ。
 今回ここまで。

「日本出版物小売業組合全国連合会」の1955年(昭和30)の名簿

【参考文献】
須田京介『風果てぬ 北風正造外伝』神戸新聞総合出版センター(2008年3月)
北風一雄『星と風』(1992年12月)、『六甲管見』(1994年6月)いずれも自費出版
兵庫県古書籍商業協同組合編・発行『六十年史』(1975年1月)

(2008年5月記)


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平野義昌(ひらの・よしまさ)
1953年7月神戸生まれ、ずーっと神戸育ち。76年私立大学文系お手軽レジャーコースを、それはそれはリッパな成績で卒業。同年潟Rーベブックス入社。5年後、女性の色香に惑い化粧品販売業に転職。しかし、マチガイを起こしたのか悟ったのか、1年9ヵ月でまた転ぶ。書店業界重鎮・村田耕平氏の且O宮ブックスに押しかけ入社。以来21年、書店業の「エエ時代と悪い時代」を体験。2003年4月同社業務縮小のため滑C文堂書店に。家族は、一美人妻、一美貌娘、一イケメン男子。店舗から徒歩17分、自転車5分、ケンケンしたらいつ着くか不明の距離に在住。2006年12月、おちゃらけ、下ネタ、嫁の自慢がてんこ盛りの単行本『本屋の眼』を、みずのわ出版より刊行。

               海文堂書店ウエッブサイト http://www.kaibundo.co.jp/





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