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みずのわColumn
こんにち話
(聞き手=共同通信宮崎支局長・上野敏彦)
共同通信のインタビュー企画「こんにち話」で、「民俗学の巨人、宮本常一」と題して、みずのわ出版代表 柳原一徳へのインタビュウ記事が配信された。2007年11月14日付山陰中央新報などに掲載。
◎無名の人々が偉かった
やり残した仕事に関心
〈今年は民俗学者の宮本常一(1907-81年)が山口県・周防大島に生まれて100年。生涯の大半を離島や山村などの振興に尽くすため、地球を4周分も歩いてきた。故郷の後輩として「宮本常一のメッセージ」「宮本常一写真図録」の2冊を出版した〉
生誕100年だからという意識はありません。そうであろうとなかろうと出すべきものは出す、それが本屋の仕事ですわ。まあ、これを機会に少しでも本が動いてくれたらうれしいですけど。ともかく宮本はどエライ人。でも、彼が訪ね歩いた無数の、無名の人々が偉かったということなんです。だから「忘れられた日本人」をはじめ多くの作品が生まれた。
今回出した「宮本常一のメッセージ」は、地元の郷土大学の講義録をまとめたもので、「宮本の旅と思想」が全体のモチーフです。宮本にほれこんだ作家の佐野眞一さんや立松和平さんたち、語り手五人の実践と、宮本の世界がどう通底するかを読み取ってもらえればと思います。
「宮本常一写真図録第1集―瀬戸内海の島と町」は、周防大島文化交流センターでの企画展示を元に作った本で、約二百枚の写真を収録しました。宮本が旅先で関心を寄せたものは、例えば漁船の造り方の変化だったり、道行く人々の足元、護岸の変わりようなどと多岐にわたっています。
彼の写真は昭和30-40年代のノスタルジーというとらえ方をよくされるが、それには違和感があります。今の時代に宮本の文章や写真は、へき地の救いようのない現実をどうみていくか、そしてわれわれはどう生きるか、という問いを突きつけているのではないでしょうか。この図録の価値が世間に広く認知されるのは、ワシらが死んだ後だと思いますよ。
〈宮本常一著作集は未来社から刊行中で、49巻目が近く出版される。民俗学に関心を持つ人も、じりじりと増えている〉
宮本が全国離島振興協議会を発足させてから亡くなるまでの30年間に季刊「しま」に執筆した記事を、来年から「宮本常一離島論集」として刊行します。それと写真図録を年に2点くらい出していきたい。しんどいですよ、きっちり作ろう思うたら。地味やけれど、基礎資料を後世に残していくことが大事と考えています。
宮本が残した遺品や手紙なんかには興味がありません。それよりも、宮本がやり残した仕事は何か、その先の展開はどうなるんだと、その先が気になる。だからこそ、この仕事を続けているわけです。
〈阪神大震災を体験した後、神戸で出版社を開業。一人でこれまでに約70冊の書籍を世に送り出した〉
被災して分かったのは、個人では何もできないということ。神戸も、さみしいけれど、薄っぺらな町になってしまった。本屋も少なくなったし、神戸を引き払って故郷へ拠点を移すことも一時は考えたのです。だけど、人が出入りするところでなければ、版元はやっていけないことに気づいた。
神戸ってね、夜の10時すぎに松山行きの船に乗れば、翌朝には故郷の周防大島へ帰れる。この安心感は大きい。仕事が回るのは大阪がらみのことが多いので、当分、大阪との間を行き来しながら、月に一度は大島へ帰り、いろいろ考えていきたい、と思うてるんですわ。
今年もよろしく 2007年1月8日
ネット新聞「ジャーナリスト・ネット」
みずのわ出版代表 柳原一徳がネット新聞「ジャーナリスト・ネット」に執筆したコラムです。
http://www.journalist-net.com/
「宮本常一叩き売り」批判
暮れも押し迫った26日の午後、みぞおちから背中にかけて呼吸も止まるほどの激痛に襲われ、神戸市立西市民病院に担ぎ込まれた。急性膵炎だった。幸い3日間の入院ですんだが、仕事は止まるわカネはかかるわ酒は呑めんわで、まったくいいことがなかった。積年の飲酒も一因ではあろうが、過度のストレスとそれに伴う不規則な生活が最大の原因であろうことは間違いない。「過度のストレス」の元になった出来事を以下に記す。
小社では、「宮本常一離島論集」(宮本常一著、全国離島振興協議会・日本離島センター監修)の刊行を企画し、全5巻の章立てと内容校正、詳細な索引取り、写真選定、解説依頼等々、滅茶苦茶に手間暇のかかる作業を数年かけてちびちびと進めていた(小社サイトに刊行予告を掲載している)。
ところが全5巻の内容のうち、著作集・単行本未収録のいわゆる「掘り出し物」(全体のほぼ半分にあたる)を「宮本常一エッセイ・コレクション」(全6巻)の第2巻「島の人生」として刊行する、ということで河出書房新社が昨年11月末頃全国の書店に予告ビラを配布した。それも、版権者である全国離島振興協議会・日本離島センターにまったく許可をとらぬまま作業が進行しており、あろうことか刊行予定が私の耳に入った時点で通しゲラまで組まれていた。
「宮本常一エッセイ・コレクション」責任編集の木村哲也氏(周防大島文化交流センター学芸員=当時)による、小社企画からの盗作と判明するのに時間はかからなかった。
去年の夏に周防大島文化交流センターを訪ねた折、私は、宮本常一が季刊「しま」(1953年12月、全国離島振興協議会の機関誌として創刊。1973年以降、財団法人日本離島センターの広報誌として継続発行)に執筆した論考の一覧を、木村氏の依頼を受けて手渡していた。それは、各論考の「しま」掲載号と発行年月日、原稿枚数、著作集収録の有無などを記したもので、あくまで編集作業中の出版企画のための資料ゆえ取扱にあたっては十分に注意してほしい旨、口頭で伝えた。木村氏が宮本蔵書の整理・研究のために使うものと信じて資料を提供したわけだが、それが裏切られた。木村氏は河出書房新社刊「島の人生」を編むために、小社の資料を断りもなく使用したのだ。研究者の端くれであるはずの木村氏がまさかそんなルール違反をするはずがない、という私の認識そのものが甘かった。
さて、刊行は中止されたが、その後が長かった。事件の発覚から「宮本常一エッセイ・コレクション」全巻刊行中止決定に至るまで2週間、木村学芸員辞職に至るまで3週間を要した。詳細は端折るが、東京の大手出版社というヤツの横暴を改めて痛感した次第、である。それと、編集者、編・著者の資質についても考えさせられた。12月15日付blog「みずのわ編集室」に「実力とか見識の欠片も持たぬ輩が、他人の仕事の上澄みだけをちゅうちゅう吸うて、あたかも自分の実績であるかのように尊大に振る舞う、という醜悪極まりない構図に辟易している」と記したのは、実は彼らを指してのことだ。
論文捏造問題で、多比良和誠東大教授と杉野明雄阪大教授が懲戒解雇になった事件は記憶に新しい。つまるところ研究者とか書き手の力量が低下しているということだ。同時に、編集者の力量も低下している。そのような現状にあろうとも、いや、だからこそ自らの力量を高めていかねばならないのだが、そういったシンドイことを忌避する動き、「楽して儲けて何が悪い」と開き直るホリエモンの錬金術にも通じるお手軽なパクリ商法が、いま、本をめぐる業界でも横行している。
その点でいえば、河出書房の問題の企画は「軽薄」の一語に尽きる。今年が宮本常一の「生誕100年」にあたるがゆえ、それを当て込んだ「売らんかな」の姿勢が見え見えなのだ。確かに宮本常一の文章はどれもいい。だが、ただ単に「いい文章」をだらだらと並べただけでまともな本が成立するかと云えば、それは大間違いだ。編者と編集者の力量がそこに表れる。ましてやろくな編集もできぬ者が「著作集・単行本未収録」(だけ)を売りにするなど、それこそ「生誕100年 宮本常一叩き売り」にほかならない。
各巻のタイトルも人をバカにしている。たとえば「第4巻 忘れられぬ日本人――私の学んだ人」。考えなくともわかるはずだが、「忘れられた日本人」(岩波文庫、未来社著作集10)の著者が没後とはいえ「忘れられぬ日本人」なんて本を出すか? 「第1巻 歩く・見る・聞く――日本の津々浦々を訪ねて」「第6巻 日本の民俗を訪ねて――聞き書き民俗採訪録」など、稚拙にすぎる。
結果オーライだが、こんなシリーズが出なくてよかった。それこそ故人への冒涜だ。
「静かな宮本ブーム」と云われて久しい。「宮本常一とお題目を唱えていれば何をやっても褒められる」といった、上滑りとしか云いようのない動きも見聞きする。「ブーム」の「底」なんて、えてしてそんなものなのだろう。
もちろんウチも商売だ。1点でも多くいいものが出せるのならば出していきたいし、宮本関連のフェアや講演会ではしっかり売らせて頂く。そうすることで一人でも多くの読み手と繋がっていきたいと願っている。だが、「生誕100年」とか「宮本ブーム」に乗っかっただけの軽薄な動きとは、徹底して一線を画していきたい。ウチは古典となりうるものを作る。そうでなければ本とは呼べぬ。
数年越しの「宮本常一離島論集」。そんなわけで「生誕100年」の騒ぎが過ぎ去った頃、満を持して世に出す所存、である。今年は無理、ならばそれでいい。「生誕100年? だからどうした」。その時はこう云ってやろうと思っている。
この1年 2005年12月28日
ネット新聞「ジャーナリスト・ネット」
神戸で硬派な本を出し続けている「みずのわ出版」。健闘しているかに見える本の刊行だが、今年は正直どうだったのか。「一地方出版社しゃちょーのぼやき」と題して出版界の現状を振り返ってもらった。
一地方出版社しゃちょーのぼやき
みずのわ出版の8月までの売上げベースで、今年は前年比40%減。1年かけて借金を増やしただけ、抗いようのない敗戦だった。
書店で本が売れないとか出版不況とかいわれて久しい。インターネットや携帯電話の所為にしていればハナシは簡単だろうが、それしきで説明がつくほど出版をめぐる業界の病巣は浅くはない。
確かに、読者は確実に減少に向かっている。趣味の多様化もあり出版業の縮小傾向は今後も続くだろうし、私たちはそれを甘んじて受け入れるしかない。だからこそ、減ったとはいえそれでも残る読者をつなぎ止めたい。
ここがジレンマなのだが、こんな本が出てまっせと伝えようにも、それが機能していない。取次経由で書店に流す場合、新刊ビラをまいて注文をとるのが当面の策なのだが、どの程度書店員の手に渡っているのか疑わしい。神保町のある書店では、新刊ビラが、一週間で膝の高さまで溜まると聞いた。
懇意にしている店長は「ウチは規模が小さいから、棚担当に割り振ってこまめに注文出すようにしているけど、バイト任せの大手なんか、そんなことしてまへんで。この人のこの本が出ているってこと知らん書店員は多いですよ」と云う。取次の担当さん曰く、それでも見てくれることを信じて新刊ビラを送り続けるしか方法がない、と。
それって、無人島から茫洋たる大海に向けてせっせとメッセージボトルを流し続けているようなものだろうか。
昨年の年間新刊点数およそ7万7000点。20年前約3万点だったのが、今や8万点に迫る勢いである。新刊の洪水に溺れているとしか云いようがない。その本が書店という場で、必要とする読者に届くということ自体、奇跡としか云いようがないのではないか。
確かにネット書店は優れ物だと思う。だが、目的とする書目があって、そこに着弾するためであればいいのだが、そうではない、書店をぶらぶらするような無駄とか衝動買いとか新たな発見とは縁遠い存在に思えてくる。
ただでさえ成り立ちにくい地方出版社はこれからどうすれば生き残っていけるのか。苦悩は深まるばかりだ。