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緑地帯【8】島びと三代の記 帰るところ

みずのわ出版代表 柳原一徳が中国新聞文化面「緑地帯」(2006年2月8~17日付、8回連載)に執筆したコラムに加筆訂正。

【8】帰るところ

山口県周防大島の母方の実家は、終戦の頃まで旧東和町の外入にいて、戦後は旧橘町安下庄の三ッ松を経て西隣の庄に移り住み、1973(昭和48)年まで部落の区民館の住み込みをして後、近くに新居を構えた。 長らく区民館の住み込みをして部落の諸々に関わっていたことと祖母の生来の世話焼きもあってか、新居を構えた後も人の出入りの多い家だった。週末など、晩ご飯を終えた近所の者がわらわらと集まってきてはテレビのプロレス中継に興じていた。人の来ん家は栄えんと祖母は云っていた。 6年前の春の日、祖母は突然いなくなった。投宿先で倒れ、朝になって見つかった。ふすま一つ隔てた向こうで電話をとった母の、えっ、お母さんが……の第一声で、私はすぐさま神戸を発つ支度を始めた。不思議と冷静だった。いつかこんな日がくる。覚悟だけはしていた。離れて暮らすとはそういうことだ。 夕方、安下庄の家に祖母を連れて帰った。当時祖母と暮らしていた妹と、テゴ(手伝い)に来た近所の人らが迎えてくれた。三十路にかかるこの日まで迷惑かけっ放しだった不肖の孫に、祖母は最後の最期で大島の家に連れて帰ってほしかったのかもしれない。ともあれ、亡くなるその直前まで祖母は現役で働き続けた。この人に、老後なんていうものはなかった。 あの日、さて帰ろうかのと云って祖母を連れて帰った大島の家に、ふた月に一度帰っている。帰る所だけは持っちょけと祖母は云った。死ぬ迄旅を続けるであろう私にとっての神戸は、あくまで旅先だ。若くして信州を離れた祖母にとっての大島もまた旅先だったのか。それがいまだ解けずにいる。

緑地帯【7】 島びと三代の記 信州の織り子さん

みずのわ出版代表 柳原一徳が中国新聞文化面「緑地帯」(2006年2月8~17日付、8回連載)に執筆したコラムに加筆訂正。

【7】信州の織り子さん

母方の祖母、豊田ゆき子は山口県周防大島とは一見縁のない信州駒ヶ根に生まれた。当時の大島には下田、外入他に製糸工場があって、その仕事で駒ヶ根との間を行き来していたのが、祖母の親戚のおじさんだった。幼くして母が亡くなり、父親が再婚して子どもが生まれたため疎んじられたらしく、祖母は十八歳で家を出て織り子さんとして大島に来たという。そこで、日中戦争で片足を失って廃嫡同然となった祖父、春一と結婚する。
今は跡形もないが、大正期から昭和初期にかけての大島には、養蚕とそれに連なる製糸業が、島の産業として存在した。これを最初に島に持ち込んで奨励したのが、島出身の民俗学者宮本常一の父善十郎だった。ここ数年宮本関連の仕事をいくつか手掛けている。同じ島の先達ということもあるが、私の祖母を信州から大島に連れてきた養蚕・製糸業との関わりの方に実は縁を感じているわけである。
祖父母は終戦まで外入に居を構えた。祖母が亡くなるひと月前、妹と私とで当時の写真を見せてもらった。三下の浜で撮った20人ほどの集合写真。浜の風景は今とあまり変わらない。一人ひとり指差しながら、あの人はいい人じゃった、あの人は戦争で死んだ、と。
祖母の小学校の卒業写真のこと。当時は写真を全員に配布し、後からお金を集めたらしい。持って帰ると母親に返却を命じられた。「うちに同じものがありますから要りません」と云って先生に写真を返した、という。
昭和の終わりに地元の農協が当時の写真集を出版した時、祖母はすぐにそれを購入した。その写真集は今、私の手許にある。

緑地帯【6】島びと三代の記 木造漁船の祖父

みずのわ出版代表 柳原一徳が中国新聞文化面「緑地帯」(2006年2月8~17日付、8回連載)に執筆したコラムに加筆訂正。

【6】木造漁船の祖父

船タデと云われて何のことだかわかる人は、そう多くはないだろう。今の漁船は強化プラスチック製が主流だが、昔は木造だった。それ故、船底に藻や貝がつき、船体を喰う虫もつく。そいつを駆除するため月に一度くらい浜に揚げてやって、松葉やらで燻す。それを「船をタデる」という。
1981(昭和56)年に亡くなった山口県周防大島の母方の祖父、豊田春一は漁師で、最期まで木造船を使っていた。当時、庄の部落の船着場に繋がれていた木造船は二、三隻くらいだったと思う。春日丸という木造船で、祖父は安下庄近辺から平郡島あたりに漁に出ていた。沖家室島で釣針屋を営んでいた父方のおじさんのところにも時々顔を出していたと聞く。宮島にも詣ってきたらしい。
潮の干満に合わせて暮らしていたのだろう。ふっと海へ出ていく。自転車で漁から帰ってくると、野良猫が列をなしてついて来た。
戦中か戦後の一時期、祖父はカシキ(炊事を担当する船員)をしていた。真っ暗闇でも水の音だけでコメの水加減が分かるとか、海の神様にいの一番にご飯をお供えするから、船が沈んでもカシキだけは必ず助けてもらえるとか、祖父亡き後、祖母が教えてくれた。
昔の島の人らは危険をかえりみず壱岐、対馬へと漕ぎ出して行った。うちの春一さんも星あかりを頼りに海に出ていった。この島の人らはみな辛抱なじゃった。この島に育てられたんじゃけぇお前も辛抱にならにゃいけん。幾度となく私にそう言い聞かせてきた祖母はしかし、この島の人でありながらも、最期までこの島の人ではなかった。

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