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歎異抄を歩む

渡辺郁夫 著
2009年6月刊
A5判並製283頁
本体2000円+税
ISBN978-4-944173-69-3 C0015
装幀 林哲夫
ジャケット図版 『正信念佛偈』(文化15年頃)
価格 <% total_price.toLocaleString() %> 円(税込)
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[はじめに、より]
 『歎異抄』は親鸞の晩年の弟子の唯円が、親鸞没後において一門に生じたさまざまな異義を正すために書いたと言われている。その前半は唯円の耳の底に残る親鸞の言葉を記し、後半はそれに基づいて異説を正すという構成となっている。我々がこの著に接して何よりも心ひかれるのは、その親鸞の肉声を記したと思われる部分である。しかし、そこにあるのはただ親鸞の言葉だけではない。(中略)
 『歎異抄』を論じたものは多いが、親鸞を高く評価するあまりに、筆録者としての唯円を不当に低く見る傾向があるように思うが、どうだろか。それをしてしまうと、法然に接した親鸞の喜びを認めないのと同じことになってしまうし、さらには現代の我々が親鸞の言葉を聞いて感動することの意味をも殺してしまうことになる。また本稿を書く意味もなくなる。聞法、聞信を浄土真宗が重視してきたのはなぜか。それは一対一の人格の真剣な向かいあいの中で真実が伝えられることを知っていたからではないのか。それが消えれば浄土真宗はただの伽藍堂になってしまう。『歎異抄』は蓮如が奥書に記したように、真剣に道を求める気持がない者は読まない方がよいのである。
 真宗が、親鸞が法然に接して以来尊んできた聞法、聞信のもっともすぐれた結実の一つが『歎異抄』であると思う。唯円という人格を通ったことによる制約があるのはもちろんだが、唯円を通ったことによって増幅された輝きというのも当然ある。それは誇張というような低い次元のものではない。信楽の光である。信楽のつながりこそが御同朋、御同行といわれる信仰共同体を支えてきたのではないか。それは現代の組織宗教の多くがとっているような近代合理主義的な組織論とは全く別のものである。光が光を呼ぶのである。光が光を呼び、光が光を灯し、広がっていくのである。この光はどこから来たのか。如より来たる「尽十方無礙光如来」の光である。それが我々の心に灯をともす。それが信楽である。聞法を縁とした信楽の広がる時、この世もまた光の国となる。そこに浄土真宗の存在意義がある。唯円が自らの信楽を記した『歎異抄』は信仰告白の書である。『歎異抄』は唯円の信楽の書なのである。光の相続をしようとする者の学びはその点にも向けられるべきである。本書を論ずるにするにあたり、著者唯円への敬意と謝意を表して、本稿の序としたい。

[目次]
はじめに

1 『歎異抄』の序文
2 『歎異抄』第一章
3 『歎異抄』第二章
4 『歎異抄』第三章
5 『歎異抄』第四章
6 『歎異抄』第五章
7 『歎異抄』第六章
8 『歎異抄』第七章
9 『歎異抄』第八章
10 『歎異抄』第九章
11 『歎異抄』第十章前半
12 『歎異抄』後半部の語録
   1『歎異抄』第十二章より
   2『歎異抄』第十三章より
   3『歎異抄』後序より

おわりに
新版に寄せて

主要参考文献

[用紙]
ジャケット あらじま 白 四六判Y目 120kg DIC313+K/2°
表紙 あらじま 白 四六判Y目 180kg DIC505/1°
見返 STカバー 青鼠 四六判Y目 115kg
本文 淡クリームキンマリ A判T目 46.5kg

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