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聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて

われ、決起せず
聞書・カウラ捕虜暴動とハンセン病を生き抜いて

立花誠一郎 語り佐田尾信作 編柳原一徳 写真
2012年9月刊
B5変形判上製69頁
本体2800円+税
ISBN978-4-86426-018-3 C0036
装幀 林哲夫(画家/「sumus」編集人)
プリンティングディレクション 高智之(山田写真製版所)
印刷 (株)山田写真製版所
製本 (株)渋谷文泉閣
銀塩プリント 田渕宏有(ケイ・アート・センタ
価格 <% total_price.toLocaleString() %> 円(税込)
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[目次]

序章

第一章 鍛冶屋、戦地へ
第二章 天幕の病棟
第三章 われ、決起せず
第四章 復員すれど……
第五章 遠い故郷
第六章 怒りと負い目と

立花さんと私 牧野正直(医師・邑久光明園名誉園長)
「捕虜」という人生の重荷 岡本貞雄(広島経済大学教授・東洋思想専攻)

■序章、より

 その散髪鋏の丸い持ち手は石膏を使って曲がった自身の指に合うよう、工夫されていた。何度目の面会になるだろう。今年6月、91歳のハンセン病回復者、立花誠一郎に会った時、頼んで道具一式を見せてもらった。
 岡山県日生諸島・長島の国立療養所邑久光明園。立花はかつて、園内で理髪の仕事を任されるほど手先が器用だった。立花の引退とともに、理髪は職員の仕事になった。兵隊にとられる前は名古屋で鍛冶職人。復員すれば再び鎚を振るい、親方にもなれただろう。やがては孫や曾孫に囲まれた穏やかな老後を送っただろう。それがどちらもかなわず、郷里との絆を断たれ、「立花誠一郎」という偽名で生きる半生を強いられた。それはなぜなのか。長い話になる――。

     *

 ぼくはカウラ事件を取材する中で立花と出会う。2007年秋だからもう五年になる。
 カウラ事件、英語ではカウラ・ブレイクアウト、つまり暴動だ。それは六十八年前、オーストラリアのカウラという小さな丘の町で起きた日本兵捕虜の脱走事件。銃撃などで231人が死亡し、自決した兵もいたほか、オーストラリア警備兵にも犠牲者が出た。戦争という「異常」の中でも特異な事件だった。
 ぼくは20代のころ、この事件を掘り起こしてきた元陸軍通訳永瀬隆(故人)と原爆資料館で出会って初めて知った。ただ、生存者から当時の証言をじかに聞くのは、浅田四郎(故人)と出会う2000年を待つことになる。浅田は元捕虜たちの戦友会、豪州カウラ会の会長。四十歳を過ぎて郷里の島根県津和野町から広島へ出て山陽空調工業を創業し、一代で地元大手に育てた。会は当時、広島駅近くの饒津神社で慰霊祭を営んでいた。
「カウラの場合、脱走に目的はないんじゃけ。ただ、死ぬために行動したんよの」
「洋食ナイフやバットを持ちラッパを合図に飛びだしたが、四つの望楼から一斉に機銃掃射を受けた。『やられた』『痛い』。阿鼻叫喚とはこのことよ」
「『あの世で仲間はずれになるで』と脅す戦友がいて会長をやめられん」
 当時、記事に書き留めた浅田の語りの数々。事件の様相がぐっと身近になった。
 その縁で、事件を追う岐阜新聞記者土屋康夫とも知り合う。彼は後に「カウラの風」(KTC中央出版)を著した。また、かねてBC級戦犯の問題に造詣の深い広島経済大教授岡本貞雄にも話したところ、戦友たちが学生たちに体験を語る会が実現した。ブックレット「―若者の聞いた―カウラ捕虜収容所日本兵脱走事件」として実を結んだ。
 その折に、毎年必ず金一封を添えてカウラ会に欠席通知を出す人を知った。立花だった。浅田の娘でカウラ会を預かる浅田慶子とともに光明園に立花を訪ね、その苦難に満ちた半生を聞いてカウラ時代の手作りのトランクを見せてもらう。慶子は涙し、帰り道、「佐田尾さん、立花さんのことを本にするの?」と聞いてきた。本書がこうして世に出るきっかけだった。
 その後、立花を何度か訪ねるうちに2009年春、ハンセン病問題基本法の施行を節目に、光明園や長島愛生園などの現状を取材する機会ができた。この年と翌年、鹿児島県鹿屋市と岡山市で開かれたハンセン病市民学会を泊まり込みで傍聴し、古い友人の太田明夫とともに大島青松園(高松市)を訪ねた。当時、光明園園長でハンセン病学者の牧野正直からは隔離の歴史を見る視点を学んだ。むろん、ジャーナリストの端くれとしては「遅ればせながら」ではあったが……。
「私たちは証言を聞く時、隔離政策など『骨』の部分も、一人の人間の喜怒哀楽など『肉』の部分も一緒に拾い上げたい」
 著書に「差別とハンセン病」(平凡社新書)などがある信濃毎日新聞記者畑谷史代の言である。ただ一人の人の証言だが、歴史の真実はその中にもきっとあるはずだ。
 民俗学者宮本常一は「手の内を明かせ」が口癖だったという。彼はその話者に出会うまでのいきさつを大切にし、書き留めている。宮本のひそみにならって、この一文を証言の前にお読みいただきたいと切に思う。(敬称略)

     *

 本書は「宮本常一という世界」「風の人 宮本常一」など過去の拙著を手掛けてくれた「猫社長」柳原一徳さん(みずのわ出版)にいつものように発破を掛けられ、仕上げることができた。昨年ルーツの周防大島に移り住み、畑仕事もしながら「再起動」した彼の初仕事の一つ。テープ起こしはいつも手堅い野木京子さん(詩人)の仕事に支えられた。
 短い締め切りで寄稿いただいた牧野正直さん、岡本貞雄さんにはご迷惑をお掛けした。これまでの取材では坂手悦子さん(邑久光明園)、山田雅美さん(豪州カウラ会)、浅田慶子さん(同)、野村泰介さん(山陽女子高)、太田明夫さん(登山家)、金崎由美さん(中国新聞)の格段のご協力、ご厚情に感謝したい。いつも応援してくれる妻美穂子の名を最後に刻んでおきたい。

 2012年盛夏 三陸被災地の踏査を終え、広島西風新都の寓居にて 編者

[語り]
立花誠一郎(たちばな・せいいちろう)
1921年名古屋市生。42年陸軍第7航空教育隊入営。通信兵として旧満州、東部ニューギニアを転戦し、43年捕虜になってオーストラリア・カウラに収容される。44年カウラ事件。46年復員。駿河療養所を経て51年岡山県瀬戸内市の邑久光明園へ転院、妻と二人で今も暮らす。長年傷痍軍人会の世話をした。短歌、華道をたしなむ。

[編者]
佐田尾信作(さたお・しんさく)
1957年島根県出雲市生。大阪市立大学文学部卒業。80年中国新聞に記者として入社。2012年3月から論説副主幹。著書に「宮本常一という世界」「風の人 宮本常一」(いずれも、みずのわ出版)。共著に「移民」(中国新聞社)、「中国人被爆者 癒えない痛苦(トンクー)」(明石書店)、「なぎさの記憶2――宮本常一 旅の原景」(みずのわ出版)。広島市安佐南区在住。

[写真]
柳原一徳(やなぎはら・いっとく)
1969年神戸市生。旧日本写真専門学校卒業。91年奈良新聞に写真記者として入社。奈良テレビ放送記者等を経て、97年神戸でみずのわ出版創業。2011年山口県周防大島に移転。公益社団法人日本写真協会会員。著書に「従軍慰安婦問題と戦後五〇年」(藻川出版)、「阪神大震災・被災地の風貌」(みずのわ出版)など。

[用紙・刷色]
ジャケット ミルトGAスピリット スノーホワイト 四六判Y目135kg スーパーブラック+特色/2°(ニス引き)
表紙 ハーフエア リネン 四六判Y目90kg 1°
見返し レザック96オリヒメ ヘンプ 四六判Y目130kg
扉 本文共紙
本文 MTA+-FS 四六判Y目110kg スーパーブラック1°(ニス引き)

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